夜,子供らが寝たあと,昼間レンタル・ビデオ屋で借りてきた黒沢明の『生きる』を見る。いわゆる遅ればせの追悼記念・旧作再見・温故知新・歴史探訪ということで。しかしこれが140分超の長尺物ゆえ,上映終了時刻は12時近くに及んだ。
見終ったあとでのやや疲労を伴う感想を一言でいえば,アイデア(本)については一応うなずけるが,ヴィジュアル(画)に関しては少々首を傾げざるを得ない,とそんな所だろうか。要するに,ストーリーが展開してゆくなかで,いくつかの重要な場面における各人の演技がかなりクサイんですわ。それは何故か。役者の技量不足がひとつ,演技指導の不備ないし錯誤がひとつ。すなわち,あまりにも善悪の対比を演技によって図式的に描こうとしすぎたからではないか(昭和20年代後半という時代は,それらを許容したのかも知れないが)。思うのだが,人の性格はそんなにハッキリと色付けられるものではない。いい人がいて,悪い人がいて,それからその中間の人がいて,と。 え? それだけ?
市井の一庶民,名も無き人々(=ドーデモイイ人々)の群中の或る任意の一人が,不幸にも死ぬ間際になって,ふと,自分は今まで何をやってきたのだろうかと自問し,せめて何かをこの世に残しておきたい,生きた証しを人々に伝えたい,といった切実たる思いがフツフツと湧きあがってくる。まして,天寿をまっとうしたわけでもなく,どうやら戦半ばにして倒れようとするのであれば,その思いは一層募るばかり。われわれは何処から来て,そして何処へ行くのか?
そのような虚仮の執念はどうやら岩をも砕く(らしい)。はい,その気持ちは充分にわかります。わかりますが,しかしそれを志村喬の不明瞭な科白で,かつ必要以上に深刻ぶった演技で表現するのは,やはりちょっと違うのではないか。
多分,私の見解はマイノリティに属するのだろう。世間一般ではどうやら本作品はかなり評価が高いらしいのだ。さよう,私はこと芸術に関しては思慮分別に欠けた単なる皮相的なヘソ曲がりに過ぎない。それは自らが一番判っている。クロサワは天皇でワタクシは無名の一庶民。庶民の声は天皇には決して届くまい。また天国にも地獄にも届くまい。その庶民は,例えばマキシム・ル・フォレスティエ Maxime Le Forestierの次のような唄に思いを馳せるくらいしか能がないわけで(一部抜粋)。
都会のなかの一本の木として 私は生まれた
コンクリートとアスファルトのなかで
壁と壁との間に押し込められて
家もなく雨風をしのぐ屋根すらもない
都会のなかの一本の木として 私は
兄弟たちの住む森から
彼らが家庭を見つけたその森から
はるか遠くで成長した
都会のなかの一本の木として
私の周囲は工場の煙で覆われていた
まるで監獄のように
そして 鉄格子の蓋で足元を押さえつけられた
都会のなかの一本の木として
けれど時々 私の葉は歌をかなでる
それらは風に舞い
はるか遠い君の貧しい窓辺まで飛んでゆく
都会のなかの一本の木として
私が死んだら 友よ
この幹でバリケードを作ってくれ
この枝で火を焚いてくれ
都会のなかの一本の木として
同じテーマを探求するんだったら,私は児童公園よりもバリケードに惹かれる。焚火の薪木に惹かれる。それはジョルジュ・ブラッサンスGeorges Brassensがオーベルニュ人から受けた Un feu de bois にも通じるところがあると思う。青臭いと一笑に付されるかも知れないが,正直,このような心情が今の私には近しく似つかわしい。
ところで,庶民って,何かね?(再び菅原文太調で)
見終ったあとでのやや疲労を伴う感想を一言でいえば,アイデア(本)については一応うなずけるが,ヴィジュアル(画)に関しては少々首を傾げざるを得ない,とそんな所だろうか。要するに,ストーリーが展開してゆくなかで,いくつかの重要な場面における各人の演技がかなりクサイんですわ。それは何故か。役者の技量不足がひとつ,演技指導の不備ないし錯誤がひとつ。すなわち,あまりにも善悪の対比を演技によって図式的に描こうとしすぎたからではないか(昭和20年代後半という時代は,それらを許容したのかも知れないが)。思うのだが,人の性格はそんなにハッキリと色付けられるものではない。いい人がいて,悪い人がいて,それからその中間の人がいて,と。 え? それだけ?
市井の一庶民,名も無き人々(=ドーデモイイ人々)の群中の或る任意の一人が,不幸にも死ぬ間際になって,ふと,自分は今まで何をやってきたのだろうかと自問し,せめて何かをこの世に残しておきたい,生きた証しを人々に伝えたい,といった切実たる思いがフツフツと湧きあがってくる。まして,天寿をまっとうしたわけでもなく,どうやら戦半ばにして倒れようとするのであれば,その思いは一層募るばかり。われわれは何処から来て,そして何処へ行くのか?
そのような虚仮の執念はどうやら岩をも砕く(らしい)。はい,その気持ちは充分にわかります。わかりますが,しかしそれを志村喬の不明瞭な科白で,かつ必要以上に深刻ぶった演技で表現するのは,やはりちょっと違うのではないか。
多分,私の見解はマイノリティに属するのだろう。世間一般ではどうやら本作品はかなり評価が高いらしいのだ。さよう,私はこと芸術に関しては思慮分別に欠けた単なる皮相的なヘソ曲がりに過ぎない。それは自らが一番判っている。クロサワは天皇でワタクシは無名の一庶民。庶民の声は天皇には決して届くまい。また天国にも地獄にも届くまい。その庶民は,例えばマキシム・ル・フォレスティエ Maxime Le Forestierの次のような唄に思いを馳せるくらいしか能がないわけで(一部抜粋)。
都会のなかの一本の木として 私は生まれた
コンクリートとアスファルトのなかで
壁と壁との間に押し込められて
家もなく雨風をしのぐ屋根すらもない
都会のなかの一本の木として 私は
兄弟たちの住む森から
彼らが家庭を見つけたその森から
はるか遠くで成長した
都会のなかの一本の木として
私の周囲は工場の煙で覆われていた
まるで監獄のように
そして 鉄格子の蓋で足元を押さえつけられた
都会のなかの一本の木として
けれど時々 私の葉は歌をかなでる
それらは風に舞い
はるか遠い君の貧しい窓辺まで飛んでゆく
都会のなかの一本の木として
私が死んだら 友よ
この幹でバリケードを作ってくれ
この枝で火を焚いてくれ
都会のなかの一本の木として
同じテーマを探求するんだったら,私は児童公園よりもバリケードに惹かれる。焚火の薪木に惹かれる。それはジョルジュ・ブラッサンスGeorges Brassensがオーベルニュ人から受けた Un feu de bois にも通じるところがあると思う。青臭いと一笑に付されるかも知れないが,正直,このような心情が今の私には近しく似つかわしい。
ところで,庶民って,何かね?(再び菅原文太調で)