平御幸(Miyuki.Taira)の鳥瞰図

古代史において夥しい新事実を公開する平御幸(Miyuki.Taira)が、独自の視点を日常に向けたものを書いています。

文学の基本は手紙

2009-10-02 23:19:07 | Weblog
 僕はリンク先の古代史CD購入のところで、申し込みのテンプレート(定型文のサンプル)を用意していません。パソコンの文書作成ソフトでは、Wordなどに必ずテンプレートが付属していますが、テンプレートとはもともと型紙のことで、製図に使うプラスチックの雲形定規をテンプレートと言います。薄い板だからプレートなのす。

 僕がテンプレートを用意しない理由は、申し込みの文体や内容で人物評価(鑑定)しているからです。文は人なりですから、弟子のように一目で信用できると分かる事があります。対して、挨拶の仕方も分からないメール、あるいは読むのに疲れる長文で辟易させられることもあります。有名大学の文学部に居ても挨拶文を書けないのでは将来性がありませんが、僕は文章の巧拙や形式で人物評価を下しているわけではありません。そういう意味ではお気軽にどうぞ。どうごまかしても結局は「文は人」なのです。ここのコメントも同じですけどね。

 日本の文学は、『万葉集』や『古今集』などの歌集や、『土佐日記』のような日記形式に始まり、類似の『枕草子』や『方丈記』などの随筆が発達し、やがて源平などの戦記物が主流となります。平安文学を代表する『伊勢物語』や『源氏物語』は、近代文学の常識と異なりむしろ異例な形式なのです。そして、歌集を別にすれば、その文体は手紙と変わらないのです。手紙を満足に書けない者は、文学の入り口に立つことすらできなかったのですね。

 江戸時代の落語で感心するのは、丁稚(でっち)が登場する奉公物です。この中では、必ずと言ってよいほど口上(口状)が述べられます。昔の奉公人はまず、口上という挨拶から徹底的に鍛えられたのです。僕は単純記憶が一番苦手なので、江戸時代の奉公人のようにスラスラと口上を述べる事などできません。昔の子供は偉かったと思います。また、上方商人の大阪が、口八丁で発達したのも頷けます。それにしても難波の喫茶店はウルサイ。

 古代ユダヤがローマによって滅亡したとき、ユダヤ人のヨセフスはローマに保護されて『ユダヤ戦記』などを残します。彼は弁舌に優れ、その才能ゆえに敵であるローマに認められていたのです。もっともユダヤ人からは裏切り者扱いですが。

 ヨセフスは文章も弁舌ですが、古代ユダヤが滅亡に至る記録は考古学的価値を持ち、その点では考古学的な価値がゼロの『モルモン書』などより断然優れています。宗教の教典は検証されることを避けて書かれるので、考古学的な資料としても価値のある『創世記』などは例外的な存在です。だからこそ、旧約聖書は文学的にも面白いのであって、嘘と捏造が得意などこかの国の歴史書はつまらないのです。

 『日本書紀』は史書ですから、歴史家の検証に耐える事実が重要なはずですが、意外にも歌などが散りばめられて文学的な側面も有しているのです。昔の官僚の深い教養がそうさせたのでしょうが、文学的な感性は教えてどうこうできる性質の物ではないので、とにかくブログでも何でも書いてみることで才能が分かります。文学評論家のようにグダグダと時間を無駄にして、自分ではメール一つ満足に書けないようでは文学を語る資格はないと思います。

 なお、僕は現代小説は一切読みません。ミステリー物は少しだけ読みましたが、純文学は三島由紀夫で止めました。だから、僕の文章に文学的な影響があるとすれば、誰でしょうかね?古代史は構想を立てないでいきなり書き始めるので、自分でも章が完結するかどうかすら分からないのです。全ては「予定調和」という、神の御技に期待しているのですから。

     エフライム工房 平御幸
コメント
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