歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

論理・数理・歴史 4

2005-05-17 | 哲学 Philosophy
四 『時空』世界の歴史性 

 田辺が一九三二年に書いた『図式《時間》から図式《世界》へ』という論文は、後に『種の論理と世界図式』において体系化されるいわゆる『種の論理』の出発点をなす論文であるが、ここに既に行為的時間的な契機を優越させた上で、それを空間的契機に否定的に媒介させた『図式《世界》』の構想が提示されている。 この論文は、在外研究のためドイツのフライブルグ大学のフッサールのもとに留学していた田辺に強い印象をあたえたM.ハイデッガーの『カントと形而上学の問題』におけるカント解釈に触発されたものであった。それは、晩年に至るまで続いた田辺とハイデッガー哲学との対決の発端をなす諸論文の一つであったが、それと同時に、二〇世紀の理論物理学の革命的な理論である相対性理論の時間概念と空間概念の統合をいかに理解するかという、科学哲学の中心的課題をも射程に収めるものであった。実存哲学と科学哲学は、西欧の現代哲学の展開においては互いに交差することの少なかった二つの大きな思潮であったが、この二つの流れを媒介することを可能ならしめる構想を含む点において、田辺と同じく数理哲学と理論物理の問題の考察から出発して宗教哲学を論じた米国の哲学者ホワイトヘッドの『過程と実在』の哲学とも呼応するものであった。

 ここで言う図式『世界』とは、『ニュートン物理学の世界像に相當して思惟せられたカントの先験的分析論が、今や相対性理論の世界像に相当するごとく具体化せられることを必要とする』という問題意識から提唱されたものであるが、それは『哲学が存在の一層深き根底に還り、一層具体的なる理性の自覚を遂げるために、物理学の歴史的進歩を媒介とする』ことに外ならなかった。田辺はハイデッガーのカント解釈を、『従来の俗見的非本来的時間に対して、本来的に自己を形成する時間の未来を直接媒介とする自発的構造を自覚存在論的に闡明した』ことを重要な貢献として認めつつ、『時間は意識の構造に属するのみで世界存在に属するという意味をもっていない』ことを理由に退ける。そして、空間性によって否定的に媒介された時間性を図式『世界』と呼び、人間の外にあって人間を限定し人間を包むものであるとともに、人間によって造られ人間によって限定される時空『世界』が歴史をもつことが強調された。

前にも述べたとおり、自我から世界を考えるのではなく、世界の自覚として自我を考えること、その世界は歴史的世界であることなどは後期の西田哲学と田辺哲学に共通する課題であった。西田においては過程的な弁証法を包摂する場所的弁証法において歴史的世界が考えられ、根源的空間性とも言うべき『場所』において世界と自我の成立が語られたが、これに対して、田辺においては『場所の論理』はいまだ時間性を捨象する点において具体的なものとなっておらず、絶対媒介をとく『種の論理』と根源的な時間性の優位において成り立つ世界図式、即ち物理的世界の歴史性を表す世界図式によって始めて具体化されるのである。 この意味での世界の歴史性こそ、懴悔道以後の田辺の理論物理学の哲学的反省の根本にある思想であった。例えば、『局所的微視的』という科学哲学の論文では、絶対空間を温存して、ただそこにおける局所時の想定において実験事実を説明しようとしたローレンツ理論とアインシュタインの相対性理論の違いが『時間が空間によって局所化せられる局所時を顛倒して、逆に空間を局所化する主体の行為的時間が真の具体的局所時として登場する』ことに求められている。田辺は、この具体的局所(世界点)を『即今(Hier-Jetzt)』と呼び、そこにおいて自覚される世界を『場所的に固定したものとせず、どこまでも時間的に動くもの』と解したうえで、『行為的直観説は、単にローレンツ的局所時に比すべき客観主義の表現的立場であって、どこまでも空間的場所の形成に止まる』と述べたうえで、西田哲学の『行為的直観』の空間性と田辺自身の言う『行為的自覚』の時間性とを対比した後で、『もし行為を包む直観が空間的場所的直観として成立するならば、それは却って行為を観想に従属せしめ、行為に固有な錯誤の危険と懴悔的自己犠牲とを見失わせる』と述べている。

  田辺が自己の哲学的立場を西田から区別するときに、『局所的/全体的』、ないし『微分的/積分的』という対概念を頻繁に使用したことはよく知られている。 とくに『微分的/積分的』という数学的用語は、H.コーヘンによって哲学の術語に転用された例はあるにせよ、哲学上の用語として使われることは少ないから、その意味を適切に理解することが田辺哲学を理解する鍵の一つであることは間違いはない。この数学的用語の意味をよりよく理解するために、ここでは一九世紀の解析力学における重要な発見に言及することにしよう。

解析力学においては、物理的な系の状態は位相空間によって表現される。この空間における系の軌跡を確定することが、その系についての全体的(積分的)認識を得ることと同義である。ところで、物理学の基本法則は微分方程式で書かれるのが通例である。それは地上に落ちるリンゴの運動にも、太陽を回る地球の運動にも当てはまるし、膨大な数の微視的な気体分子の系の運動にも、銀河を形成する星の集団の運動にも当てはまる。そして、数学的にはこの微分方程式は、適切な初期条件、境界条件のもとでただ一つの解をもつことが保証されている。そのために、古典物理学の成り立つ系は決定論的であるという意味で、根本的に非歴史的であるという特徴をもっていると長い間考えられていた。しかしながら、数学的決定論は決して、われわれがそのような(存在のみが保証された)解を積分によって具体的に認識出来るということを意味しはしない。微分方程式によって記述される物理系が、積分可能であるとは限らないのである。このことの発見は、まずハインリヒ・ブルンスが三体問題が積分可能でないことを最初に証明し、ポアンカレがその証明を一般化したとき(1889)、当時の科学界は大きな衝撃を受けたのである。(14)例えば、太陽と地球と月からなる系の遠い将来の運命を現在我々が認識することは原理的に不可能なのである。これに対して、二体問題は積分可能であるから、我々は、三体問題は二体問題の単純な組み合わせに還元されない新しい質をもっていると言わなければならないであろう。田辺哲学の用語を物理学に比論的に転用するならば、三つの天体からなるシステムは『社会的存在』に固有の予測不可能性をもっているのである。 要するに、古典物理学における決定論と言われてきたものの実態は、言わば全知の神のごとき存在の目から見た決定論であって、我々人間が未来を予知できるという意味での決定論ではなかったのである。

 特殊相対性理論においては、さらに異なった意味での予測不可能性が生じる。周知のごとくこの理論では絶対時間の存在が否定され、同時性が因果的独立性によって置き換えられる。ある一つの事象の因果的未来が何であるかは、その因果的過去に属するすべての事象だけでは決定されない。それはその事象と共時的な全ての事象に影響されるが、共時的な事象は因果的に独立であるから、我々は原理的に現在認識出来ぬ事象が我々の未来に影響を及ぼすことを認めなければならないのである。言い換えれば、我々が観察し得る時空上の局所的な観点から認識し得る過去のすべてを知っていたとしても、我々は未来を知ることは原理的に出来ないのである。(15)

 量子力学では、ハイゼンベルグの不確定性原理によって、粒子の位置と運動量を同時に我々が観測によって確定することは出来ない。このことは、系の状態を位相空間の一つの点として確定することが原理的に不可能となることを意味している。量子力学が対象とする微視的領域では、たとえ神のごとく全知の存在があったとしても、彼が対象系と関わりをもつ限り、未来を一義的に予測することはできなくなる。量子力学が問題としているのは、同一の原因は同一の結果を生むという因果律が適用されない領域なのである。 現代物理学の最大の理論的課題は、田辺が晩年の科学哲学的著作の中で予見したように、相対性理論と量子力学との統合である。我々は、ビッグバーン宇宙論の発見という、田辺自身は知ることのなかった物理学の発達そのものを考慮しなければならない。全体としての宇宙の起源を問うというきわめて形而上学的な問を、自然科学自体が自然科学の内部から問うている現代の状況そのものが、時空『世界』の歴史性という基本テーゼによって田辺が表現した事態を支持しているといってよかろう。田辺の言う『相対性理論の弁証法』は、全体としての宇宙が不可逆な歴史をもつという今世紀の物理学の重大な発見を哲学的に反省するものにとって重要な示唆を与えるものであることは間違いない。時空的な世界の総体を非歴史的な全体として捕らえ、そこに於いて個物的限定を考えることは、現代物理学のこの文脈においては意味をなさない。『数理の歴史主義展開』は、『物理の歴史主義展開』ともいうべきものにおいて具体化されたが、これこそ、田辺以後の現実の物理学の歴史の示すところにほかならない。

 存在するものの総体としての宇宙は、非歴史的に与えられた全体として完結しているものではなく、有限の歴史をもち、その地平は拡大しつつある。『無』からの創造が、相対論と量子論との部分的統合によって物理学の内部で語り得るようになった現在において、物理学自身が曾ては神学的思弁の領域に属していた事柄を主題としている(16)。非歴史的な『存在の比論』だけではなく、存在の根底にある『無』からの創造を説く現代物理学と宗教との対話が成り立つためには、田辺が構想したような『宗教哲学に通底する科学哲学』、即ち、根源的な時間性において宇宙を考える『無の比論』にもとづく科学哲学が必要不可欠のものとなるであろう。

 



(1) この著書 は1986年に英訳が出版されている。Tanabe Hajime, Philosophy as Metanoetics, Trans. by Takeuchi Yoshinori, V. Viglielmo, and J. W. Heisig et al.Berkeley: California University Press, 1986. 懺悔道という言葉よりもMetanoeticsという語のほうがその内容をよりよく表している。
(2)ハンス・ライヘンバッハ、『科学哲学の形成』、市井三郎訳、みすず書房(1954)
(3)田辺元全集(TWと略記)、筑摩書房(1963)
(4)西谷啓治著作集(NWと略記)、創文社(1986)
(5) Herman Weyl, Die Idee der Riemannschen Fl che B.G.Teubner,Stuttgart,1913
(邦訳)『リーマン面』(田村二郎訳)岩波書店(1974)
(6) Herman Weyl, Philosophy of Mathematics and Natural Science, Princeton University Press(1949) (邦訳) 『数学と自然科学の哲学』(菅原正夫、下村寅太郎、森繁雄訳)、岩波書店(1959)
(7) Morris Kline, Mathematics: The Loss of Certainty, Oxford University Press(1980)
(8) Philip J.Davis, & Reuben Hersh、 The Mathematical Experience、 Birkh user,Boston (1982) (邦訳)『数学的経験』(柴垣和三雄他訳)森北出版(1986)
(9)末綱恕一、『数学の基礎』、岩波書店(1952)
(10)末木剛博、『西田幾多郎-その哲学体系』春秋社(1988)
(11) 末木剛博、『西田理解の方法と矛盾概念の解釈』、上田閑照編『西田哲学への問い』所収
(12) 西田幾多郎全集(NWと略記)岩波書店(1978)
(13) Bertrand Russell, My Philosphical Development, George Allen & Unwin, London (1959)邦訳『私の哲学の発展』(野田又夫訳)、みすず書房(1960)、p.96
(14) Iliya Prigogine,From Being to Becoming、W.H.Freeman and Company, New York(1980) p.32.
(15) Karl Popper, The Open Universe: An Argument for Indeterminism, Huchinson
(16)A.Vilenkin,“Creation of Universes from Nothing" Physics Letters,117B:25-8
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