歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

辯證法にかんする覚書: カント 3

2005-05-09 | 哲学 Philosophy

 カントは、カテゴリーの「分量」と「性質」を数学的カテゴリーとよび、「関係」と「楼相」とを力学的カテゴリーとよんだのに応じて、純粋理性の二律背反の前の二つを「数学的二律背反」とよび、後の二つを「力学的二律背反」とよぶ。カントによると、「数学的二律背反」における「無制約者」即ちイデーは、被制約者の系列の一部をなすものであって、それと「同種的」(gleichartig)であるが、力学的二律背反における「無制約者」-即ち自由なる原因、及び絶対必然的存在体-は、被制約者の系列-即ち自然の因果の系列及び偶然的なるものの系列-の外に存する「単に可想的」(bloss intelligibel)な「異種的制約者」(ungleichartige Bedingung)である。

「現象の制約の系列の絶対的総体性」は有限なものともいえず、また無限なものともいえず、その意味で二律背反の定立も反定立も共に誤りであり、ただ系列の背進的綜合が「不定の範囲に」(in indefinitum)行われ得るという統制的原理を示すにすぎないのであるが、しかしかかる背進的綜合が同種的なるものの綜合でなく、異種的なるものの綜合を意味する場合には、無制約者はこの系列の外にあるのであるから、たとえ背進的綜合が不定の範囲のものであっても、無制約者が存在し得ると考えることは可能になるのである。

 かかる調停はいかにして客観的実在性を得ることが可能であろうか。特に第三の二律背反は、『純粋理性批判』を『実践理性批判』に結びつける重大な点であり、したがってまた、カントの哲学体系にとって最も重要な内容を含むものであるから、次に、第三の二律背反について問題の要点をのべよう。

 例えば一つの悪意ある嘘言のごときある不道徳な行為を為した人を我々が非難する場合を考えてみよう。我々はこのような行為を生み出すに至った自然原因を探究することができる。良くない教育、悪い交際関係、恥知らずの気質、軽卒さ、無思慮などその他、行為に機縁を与えるような「機会原因」)(.=die veranlassende Gelegenheitsursache )を見出し、行為がこれらの原因によって規定せられていることを信ずる。それにもかかわらず、人々はその行為者を非難する。彼はそうせざるを得なかったかもしれないが、そうすべきではなかったと。それは何故であるか。

カントによれば、「人間には、感性的衝動による強制から独立に、自ら自己自身を規定する能力が存している」からである。即ち、「自然に従う因果性」(Kausalität nach der natur)のほかに、「自由からの因果性」(Kausalität aus Freiheit)なるものがあり、後者は「一つの状態を自らはじめる能力」であり、「自らはたらきはじめる自発性」であり、「他の原因の先行することなき自発性」である。第三の二律背反の定立の側でいわれた「自由による因果性」とはかかるものであると解することができる。かかる先験的イデーとしての自由を、自由の実践的概念は某礎としている。「実践的自由」(praktische Freiheit)は、「あることが起らなかったけれども、しかもそれが起るべき(sollen)であった」ということを前提とする。即ち、「自然.原因(Naturursache)から独立に、のみならず、自然原因の強制と力とに反抗してすら、あるものを生み出す因果性、したがって出来事の系列をまったく自らはじめる因果性が、我々の随意性(Wirkuer)のうちにある」ことが前提せられている。実践的意味における自由とは、「感性の衝動による強制から随意性が独立している」ということである。「随意性は、感性の動因によって受動的(pathologisch)に触発(affizieren)せられる限り、感性的であり、それが受動的に強制(pathologisch necessitieren)せられる場合には動物的(即ちarbitrium brutum 動物的随意性)である。人間の随意性はたしかに感性的随意性(arbitrium sensitivum)ではあるが、しかし軸物的ではなく、自由的随意性(arbitrium liberum)である。けだし、感性は人聞の随意性による行動を必然的たらしめないからである。」カントは「感官の対象において、それ自身は現象でないもの」を「叡知的(可想的)」(intelligibel)という。かくて感性界(Sinnenwelt)において現象であるものが、それ自身また感性的直観の対象でない能力を有し、これによって諸現象の原因であり得るとすれば、その因果性は二面から考察せられ得る。しかもすべて「作用的原因」(wirkende Ursache)は「性格」(Charakter)即ち「その因果性の法則」(Gesetz ihrer Kausalitaet)を有する。かくて、我々人間の「主体(主観)の能力」(Vermoegen eines Subjekts)は、一方において「経験的性格」(empirische Charakter)を有し、他方において「叡知的性格」(intelligible Charakter)を有する。人間の主体は、その経験的性格からすれば現象であって、因果の自然法則に従い、その限り人間の行為はすべて自然法則によって説明せられねばならぬ。しかしながら、人間の主体はその叡智的性格からすれば、因果の自然法則に従属せず、一切の自然必然性から独立であり自由である。経験的性格は「現象におけるものの性格」(Charakter eines Dinges in der Ersscheinung)、叡智的性格は「それ自身においてあるものの性格」(Charakter des Dinges an sich selbst)ということができる。かくして「同一の行動」において、「自由と自然」(Freiheit und Natur)とが矛盾なく成立し得るのである。作用の結果が現象である場合、その現象の原因を「経験的因果性」(empirische Kausalitaet)の法則によって現象のうちに求めることは可能であるが、しかしカントによると「かかる経験的因果性それ自身が、非経験的にして叡智的なる因果性(ein nichtempirische, sondern intelligible Kausalitaet )の結果(Wirkung)であることが、むしろ可能ではないか」と。ここでカントは、自然因果性を、結果とするところの、より根源的な原因を考えているといってよい。ここに我々は、プラトンにおける「原因」(aitia)と「副原因」(sunaitia)以来、新プラトニズムを通じて西ヨーロッパに伝えられ、十七世紀には「原因」(cause)と「機会原因(または偶因)」(occasion)の形でとり上げられた問題が、カントによって受け継がれている姿をみることができるであろう。

「物自体」の因果性が、「現象」の因果性よりも更に根源的にして、その基礎として考えることができる、ということをカントはここで言っているのであって、こういう考え方の基本は、カントに至るまでのヨーロッパの伝統的形而上学の考え方であり、こういう思惟のモティフは、ロック、バークリィ、ヒュームのイギリス経験論をも貰いているモティフである。

現象としての原因が「機会原因」であるに対して、物自体としての原因が、真実の意味における「原因」であるという考え方としてもそれはあらわれ、マールブランシュやバークリィに、それは示されている。こういう伝統的形而上学の考え方の基本が十八世紀ドイツのカントに流れ込んでいるということは当然のことであるが、しかしそれはカント的に変容せられ、いうならば、それはカントにおいて根本的な改釈をうけているといってよい。

伝統的な考え方は、カントにおいて、そのままに肯定されているのではない。カントにおいては、その様にも考えることができる、という形で、はじめて認められているという点が重大な相違である。少くともカントは、その様に考えることが絶対にできないということを否定する。だから、そう考えることができるのではないか、とカントはいうのである。カントは確実なる認識を現象の世界に限ったが、だからといって、物自体の世界を否定するのでなく、それへの道を開けておくのである。そしていうならば、物自体の世界の方がより某礎的なる世界であり、現象の世界も、また現象の世界に対する確実なる認識の可能性すらも、物自体の世界によって保証せられ基礎付けられているということを、思惟可能として認めておこうとする。少くともカントは、ここで、絶対にそうではないということをはっきりと否定する。カントは「信仰に場所をあけるために」ここで「知識を取り除く」(das Wissen aufheben)ことをしているのである。

物自体としての原因が、現象としての原因よりも根源的であって、しかもその基礎であるという考え方は、第四の二律背反の解決-その定立と反定立との調停-に直ちにつらなってゆく。第四の二律背反の解決においては、世界の原因としても考えられる「端的に必然的なる存在体」が問題である。第三の二律背反においては、人間の主体-という作用的原因-が、現象界の系列のなかにありながら、-その限り、それは「現象的実体」substantia phaenomenonであるが、かかるものが、しかもまた同時に物自体としても考えられ得るというところに調停が可能であったのであるが、第四の二律背反においては、「端的に必然的なる存在体」即ち神が、まったく現象界の系列の外に在り、その限り「超世界的存在体」ens extramundanumであるとされる点に特質があり、そしてまさにこの点に、その調停の可能なる所以がある。即ち、現象の世界においては、その反定立が主張する如く、いかに制約の系列をさかのぼろうとも「端的に必然的なる存在体」は決して見出されることなく、そこに見出されるものはすべて偶然的なるものの系列である。しかしながらこのことは、この偶然的なるものの「全系列」が、なんらかの「叡智的存在体」即ち「端的に必然的なる存在体」によって「基礎付けられ得る」(gegruendet sein koennen)ということを「拒絶しない」のである。かくして反定立もまた認められることになるのである。即ち第四の二律背反も、その定立と反定立とが両者共に真であり得るとして解決せられる。さて右の如くであるとすると、「現象」と「物自体」との関係は、「偶然的なるもの」と「必然的なるもの」との関係として考えられ、「現象」は、「物自体」という「必然的なるもの」の「偶然的なる現われ方」(zufaellige Vorstellungsarten)であると見なすことができる、ということになる。しかし我々は、この物自体としての「叡知者」(intelligenz)即ち「神」について最少の知識すらもっていない。しかしそれに就いて我々は知識をもちたいと欲する。そこに従来の神学的形而上学の努力があったのであって、それを吟味し批判するのが、次の「純粋理性のイデアール」の問題である。

純粋理性のイデアール

「イデアール」(理想または理想体)(Ideal)とは「個体的なイデア」(die Idee in individuo)であり、「個物」(ein einzelnes Ding)としてのイデーである。イデアールは理性にとって、一切のものの「原型」(Urbild, Prototypon)であり、我々の理性そのものも、かかる「原型」の「模写物(Nachbild)」であるようなものである。理性のイデアールの対象は「原存在体」(Urwesen; ens originarium)であり、「最高存在体」(hoechstes Wesen; ens summum)であり、「一切存在体の存在体」(Wesen aller Wesens; ens entium)である。かかるものは神である。即ち、純粋理性のイデアールは、先験的神学の対象である、

理性によってなされる神の現存在(Dasein Gotes)の証明は三種だけ可能である。第一は、あらゆる経験を捨象し、全くア・プリオリに単なる概.念から神の現存在を推論する「存在論的証明」(der ontologische Beweis)。第二は不定の経験から神の現存在を推論する「宇宙論的証明」(der kosmologische Beweis)。第三は一定の経験から神の現存在を推論する「自然神学的証明」(der physiko-theologische Beweis )。この中、第一の存在論的証明が最も根本的なものである。そこでまずこの吟味からはじめる。

存在論的証明とは、神、即ち「最も実在的な存在体」(das allerrealste Wesen)は、一切の実在性(Realitaet)を有し、一切の実在性のうちにはまた「現存在」も含まれている。故に神は存在する、と推論するものであるが、しかしカントによると「長も実在的な存在体」という概念から、この概念の対象の現存在を推計することはできない。現実の百ターレルは百ターレルの概念以上のものを含んでいる。概念としては現実的な百ターレルも可能的な百ターレル以上のものを含んでいないが、私の財産状態という現実においてはそうでない。一つの対象について、これが現実に存在するということをいいうるためには、この対象の概念の外に出て、経験に頼らなげればならぬ。しかるに「最も実在的な存在体」という概念の対象は経験を超えている。故に、古来有名なる存在論的証明は成り立たぬ。

 次に宇宙論的証明は、ライプニッツによって「世界の偶然性から」(a contingentia mundi)の証明とよばれたものであって、それは次の様に推論する。世界に何かが存在するとすれば、それは原因を有たねばならぬ。何故なら、世界の中にあるものはすべて偶然的なるものであつで、それ自身において存在するものではないからである。さてしかるに、少くとも私は存在する。故に、私という偶然的なる存在者がある以上は、そこに原因が求められなければならぬ。しかし、その原因もまた偶然的なるものであるかぎりは、さらにその原因が求められなければならぬ。かく原因の連鎖、を探ねてゆけば、最後に、「第一原因」(eine erste Ursache)として、もはや偶然的ならざる絶対に必然的なる存在体が求められなければならぬ。絶対に必然的とは、自らにおいて、独立に存在するということであって、かかるものこそ、最も実在的な存在体、即ち、神である。即ち、神は存在する、と。

 このような宇宙論的証明は、カントによれば、まず第一に、現象界においてのみ使用せらるべき因果律を、現象界を超えて第一原因にまで拡張的に使用しているという誤りを犯している。そして第二に、かくして求められた絶対に必然的なる存在体が、最も実在的な存在体即ち神であるとせられるのであるが、それは、最も実在的な存在体こそ、必然的に-即ち、自らにおいて独立に-存在するものであるということを前提としているのである。しかしこのことを敢えて主張しようとすることは、さきの存在論的証明がはたそうとして、その誤りなることが既に示されたところのものである。現象界における偶然的なるものの因果の全系列を基礎付けるために、第一原因として端的に必然的なる存在体を「想定」(annehmen)することは許されることであるとカントは認めるのではあるが、しかしさらに進んで、かかるものが必然的に存在すると敢えて主張するに至るならば、それはもはや許されざる越権であると彼は考える。そしてここにこそ、宇宙論的証明の「主要論拠」(立証の腱nervus probandi)はあり、そしてこの主要論拠こそ、先にその誤りなることが暴露された存在論的証明の当の主張にほかならぬのである。かくて宇宙論的証明は、存在論的証明とは相違するかの如き外観を装いながら、実は「覆面せられた存在論的証明」(ein versteckter ontologischer Beweis)であることが、明らかにされたのである。

最後に第三には自然神学的証明であるが、これは次のように推論する。世界にはその到るところにおいて、多様.秩序・合目的性・美しさの限りなき光景が展示せられている。故に、この無限に偶然的なるものを維持し、その発源の原因であるもの、そしてこの無限に偶然的なるものの外に独立自存する「崇高にして賢明なる原因」、即ち、自由によって世界の原因であるところの「叡知者」(intelligenz)がなければならぬ、と。カントによれば、この証明は最も古く、最も明瞭で、常識に最もよく適している。しかしながらこの証明は「人間の技術との類推」(Analogie mit menschlicher Kunst)によって悟性及び意志をもった自由なる叡知者が自然の根抵に存すると推論するものであって、それはせいぜいのところ、自然の組織の合目的性とその立派な調和斉一という、世界の「形相(口形式)」(Form)に関して、その形相(=形式)の創始者である「世界建築師」(weltbaumeister)としての神に到達し得るにすぎないのであり、決して、世界の「質料」(Materie)をも創造する「世界創造者」(Weltschoepfer)としての神を証明することはできぬものである。もしも世界創造者としての神を証明しようとするならば、自然神学的証明は突如として宇宙論的証明にとび移らねばならぬ。ところが宇宙論的証明は「覆面せる存在論的証明」にほかならぬ故に、自然神学的証明も結局は存在論的証明を基礎とするものとならねばならぬ。

以上の如くして、経験の範囲を超えた理性の「思弁的使用」(der spekulative Gebrauch)においては、最高の存在体たる神の現存在のいずれの証明も成立せぬことが明らかにせられたが、しかしこのことは、神の現存在を否定することではない。神が経験、の範囲を超えた存在体である以上、思弁的理性は神の存在を証明することができぬと同様に、神の存在を否定することもまたできぬ。「有神論」(Theismus)が成立し得ぬと共に、「無神論」(Atheismus)もまた成立し得ぬ。しかしそれは理論として成立し得ぬということであって、結局、問題は実践の世界に移されるであろう。もしも、「道徳律」を手引とし基礎とする「道徳神学」(Moraltheologie)が成立し得るとすれば、神の現存在は積極的に想定され要請されねばならぬであろう。
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