歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

療養所文学を超えて

2005-05-05 |  文学 Literature
戦前の癩療養所には、患者のための慰安として文藝活動が奨励された。また様々な宗教活動も、それが国家の政策を根本的に批判しないものである限り、容認された。慰問というかたちで行われた宗教家の善意、その献身的行為のなかには、我々の心を撃つ者が数多くあったことは言うまでもない。しかしながら、当時の宗教家の多くが、強制的な終生隔離という国家の犯した罪を罪として見抜く目をもっていなかっただけでなく、それらを正当化することに荷担したということもまた、当時の資料を調べれば調べるほど、否定し得ぬ証拠が見出される。社会的な政策を批判する眼を持たなければ、宗教もまた単なる慰安活動として位置づけられよう。

神仏を信ずることによって、死に向けられた生を生きる患者に心の平安が与えられるならば、それはそれで良かったのではないか、という人もいるかもしれない。
「慰問団を悪くいう人がいるが、肉体の苦しみが避けられないのならば、せめて精神の苦しみを減らして生きることが、彼等の幸福につながる。信仰によって来世に希望を持つことは間違いないし、そういう最後の希望のよりどころとしての宗教を奪い去られたならば、あとは絶望だけしか残らないだろう。例え、宗教が非真理であっても、それが社会的な不正義に苦しむ人たちの苦しみを軽減するのであれば、それはそれで意味のある役割を果たしたのだ」
このようなシニカルな発言を聞いたこともある。しかし、これでは宗教はたんなる社会的抑圧の真実をカモフラージュする道具に成り下がるであろう。社会的な現実を直視しない信仰が、真に人を救ったと言えるであろうか。「宗教は民衆の阿片である」という言葉は、その限りで正しいのである。

しかしながら民衆の阿片としての一切の宗教的なものを否定したとしても、どの人間も、自分一人で生死の問題に直面しなければならない。強制収容所に隔離されているか否かにかかわりなく、どの人間も、死に向けられた生を生きなければならないことは、絶対に確実なことである。この万人に共通する真実を隠蔽することなく真正面から立ち向かった人の記録として、我々は歌集「白描」を読むことができる。これは決して所謂「癩文学」などではない。

「死に向けられた生」を生きるということ。自分よりも重い病苦に苦しみ死にゆく病友のうちに、将来の自己の姿を見すえながら、生き続けなければならないということが、明石海人の創作活動の原点であった。文学とは、自己の死を忘れるための慰安ではなかった。彼は、極限状況での生の本質をその作品で示したが、そういう生は、実は本来、私たちが差し向けられている現実そのものと変わりはない。異常な状況と思われていたもののなかに、普遍的な真実が示されているのである。社会的な自己が、病気と強制隔離によって抹殺されたとしても、なおかつ、自己自身に対する自己が残されている。そういう自己を見つめつつ、自己の姿を今此処に作品として創作することのうちに、海人は自らの救済の道を見出したのである。
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