歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

辯證法にかんする覚書:アリストテレス

2005-05-08 | 哲学 Philosophy
アリストテレスの弁証法-批判検討の方法として-

トピカ 「弁証的推理」を主題的にとりあつかった彼の『トピカ』は、まず巻頭で次のように論じている。(100a-101a)

「この著述の意図するところは、われわれが、提起されたそれぞれの問題について、一般に承認された意見から推理することができるような方法、また答弁するさいに、自分で矛盾したことを言わないようにする方法、を発見することにある。まずはじめに推理(sullogismoV) とはなにか、それにはどんな種類があるか、ということを述べねばならない。それは弁証的推理を把握するためであり、この推理を研究するのがこの著述の仕事なのである。さて推理とは、或るものが定立されたとき、その定立されたものを通じて、それとは違ったものが必然的に帰結するような言論(logoV)である。ところで
(1) 推理が、真で第一の前提からなされるとき、または第一で真のものから認識されたものを前提としてなされるとき、その推理は論証(apodeixiV)である。これに対して、
(2)一般に承認された意見から為される推理は弁証的な(dialektikoV)推理である。
真で第一のものというのは、他のものの故にでなく、それ自らの故に信じられるもののことである。というのは、学問の諸原理においては、われわれは何故にということを問うべきではなくて、それぞれの原理はそれ自らにおいて信じられるものでなければならないからである。ところが、一般に承認された意見というのは、すべての人に、または大多数の人に、或いは賢者たちに、そして賢者という場合にも、すべての、または大多数の、もしくは最もよく知られた著名な賢者たちに、認められた意見のことである。しかし、
(3)一般に承認された意見のように見えて実はそうでないものからなされる推理や、一般に承認された意見またはそう見えるだけの意見から推理されたように見えるにすぎないものは、争論的な(eristikoV)推理である。この争論的推理のうちで前の方の種類は推理と呼んでよいが、後の方の種類は争論的推理ではあるにしても、それは推理しているように見えて実はそうでないのだから、推理ではない。上述のすべての推理のほかにまだ、
(4)一定の学問に固有なものからなされる誤謬推理(paralogismoV)がある。例えば、幾何学やそれに類する学問によく起こるようなものである。.....間違った作図をする人は、真で第一の前提から推理しているのでもなければ、一般に承認された意見から推理しているのでもない、その学問に固有ではあるが真でない想定から推理しているのである。---」

この文章から推察されることは、まず、「答弁するさいに自分で矛盾したことを言わないようにする方法」とあるように、アリストテレスの弁証論が問答討論の方法(問答法)という性格をもっていたことである。アリストテレスはこの書物の第二章から第七章にわたって、弁証家が問(抗議)を提出し、あるいは立論したり論破したりするための種々の観点(topoV)について詳論したのち、最後の第八巻の冒頭で、「抗議すべき観点を見いだすまでの考察は、哲学者にとっても弁証家にとって共通である」が、「個々の問を順序だて、それらを他人に向かって提出するのは弁証家に固有の仕事」であって、「自分ひとりで探究する哲学者」には無関係だといっている。また彼は、「弁証的命題は、それに対して《然り》とか《否》とか答えることのできる命題〔問〕である」(158a)ともいっている。
さらに、アリストテレスが弁証的推理を争論的推理や誤謬推理と区別し、論理的に正しい推理としていることから、彼の弁証論は、単なる問答法ではなく一種の推理法(思考法)という性格をもっていたことが推察される。争論的推理はその前提や推理過程に「見せかけ」を含んでいるから真の推理とはいえない。「争論術的に問答するのは悪い議論家」であり(161b)、「詭弁は争論的推理である。」(162a)しかし弁証家は争論家とは「目的」を異にし、「訓練や検討試論(peira)や研究のために」互いに討論するものである。(159a) 弁証的な討論は問い手と答え手とが「共通の目的」をもっておこなう「共同の仕事」なのである。(161a)だから、争論術や詭弁術は一種の問答法とはいえるにして思考法ということはできないが、弁証法は論理的に正しい問答思考法でなければならない。
したがってまた、弁証的推理と論証とは、推理の前提がちがうにしても、推理過程では同じ思考の原理(同一律・矛盾律など)や推理の法則(三段論法)に従うものとされていることが推察される。アリストテレスが「分析論前書」で次のように述べていることは、その裏づけとなろう。
「論証法(apodeiktikh)では、その前提となる判断は、互いに矛盾する二つの言表のどちらか一つを断定することであるが――というのは論証する者は単に前提を探索するのではなくて前提を確立する者であるから――これに反し、辯證論は二つの矛盾する言表のうちから随意にこれを、選択する点において、前者と違っている。しかしこの違いは、両者各々のなす三段論法の推理過程には無関係である。何となれば、論証する者もまた弁証的に探索する者も、共に或ることが他の或るものに属するか属しないかを述べることによって推理するのであるから、したがって、三段論法の前提判断は、判断としての限り、上述のように、或るものについて或ることを肯定するか或いは否定するかであろうが、それが真であり根本原理から得られたものである場合には、論証法の前提というべきである。これに反して、弁証法は、前提を問い求めて探索する際には、二つの矛盾するもののうちから随意にその一つを前提として選択し、それから推理してゆくときには、明らかで一般に承認されているものを採択する。それは『トピカ』で述べた通りである。」(24a-24b12)

このようにみてくると、対人的問答の形式は、アリストテレスの弁証論にとって決定的な要素ではないことがわかる。争論術や詭弁術が議論の相手なしには全く無意味なものとなることはいうまでもないが、思考とは自分の魂が自己と問答することである(プラトン)という意味で、弁証論は自分ひとりで探究する方法ともなりうるであろう。アリストテレスも、一議論の相手がえられなければ、自分自身で同じやりかたで訓練しなければならぬ」といっている。
こうして結局、哲学者は争論術・詭弁術を斥けねばならぬにしても、弁証論までも斥ける必要がないばかりか、むしろそれを活用しなければならぬ、ということになるであろう。なぜなら、厳密な学的認識としての哲学に固有な推理は「論証」であるが、論証の前提となるべき「真で第一のもの」、「真である根本原理から得られたもの」は、必ずしも常に与えられているわけではなく、哲学者はまずもってそうした「前提を問い求めて探索する」ことを必要としており、したがってそのさい、「二つの矛盾するもののうちから随意にその一つを前提として選択し」つつ、それらを検討吟味するところの弁証論の助けをかりねばならぬからである。「相反する二つの仮定のそれぞれの帰結を見渡しうること、また見渡していることは、認識や哲学的知にとっても軽視できない手段である」(『トピヵ』163b)というアリストテレスの言葉は、まさにそのことを意味すると言われる。また彼が『トピカ』の第一巻第二章で、「弁証論の研究がどれだけの、またどのようなことに役立つか」という問題について、次のように、それが哲学的な学問のために有用だという点を強調しているのも、そのためにほかならないであろう。

さて、以上の考察にもとづいてアリストテレスの弁証論の性格を考えてみると、それは、矛盾律を思考原理とする問答思考法という点で、また哲学固有の論証法(真理確立の積極的方法・存在認識の方法)と区別された消極的推理法(批判検討の方法)という点で、系譜的にはゼノンの問答法の発展形態だといわねばならない。しかし歴史的にはそれはゼノンの直接の発展ではなく、ソクラテスとプラトンを媒介とする発展であった。アリストテレスの弁証法がたんなる論駁の方法ではなく、問い手と答え手とが「共通の目的」をもっておこなう「共同の仕事」だというところには、ソクラテス的な共同討議の精神がうけつがれているとみられるし、またそれがたんなる対人的問答法にとどまらないで、むしろ推理法・思考法を主要性格としているところには、プラトン的な内面的問答法の性格が認められるであろう。

「辯證法は三つのことに役立つ、すなわち、訓練のために、会談のために、そして哲学的な学問のために有用である。まず

(1)訓練のために有用であることは上に述べたところがら明らかである。方法を心得ておれば、提起された問題をたやすく手がけることができよう。また
(2)会談のために役立つというのは、大衆の意見を要約して、正しく語られていないと思われることは何でも、ほかの意見からでなくその意見自体をもとにして、反論することができるからである。最後に
(3)哲学的な学問のために有用だという理由は、
(a)両方の側に難点を取出すことができれば、それぞれについてどこが真でどこが偽かということが、たやすく認識されようからである。また
(b)弁証論は個々の学問の諸原理の第一のものは何かを認識するためにも役立ちうる。原理というものはすべてのうちで第一のものであるから、与えられた学問に固有の諸原理からそれを論ずることは不可能であって、むしろ個々の点についての一般に承認された意見を通じて、それを究明しなければならない。このことは弁証論に独特な、あるいは最も固有な仕事なのである。弁証論は検討吟味するに適している(エクセタスティケー「弁証論は三つのことに役立つ、すなわち、訓練のために、会談のために、そして哲学的な学問のために有用である。まず
(1)訓練のために有用であることは上に述べたところがら明らかである。方法を心得ておれば、提起された問題をたやすく手がけることができよう。また
(2)会談のために役立つというのは、大衆の意見を要約して、正しく語られていないと思われることは何でも、ほかの意見からでなくその意見自体をもとにして、反論することができるからである。最後に
(3)哲学的な学問のために有用だという理由は、

(a)両方の側に難点を取出すことができれば、それぞれについてどこが真でどこが偽かということが、たやすく認識されようからである。また
(b)弁証論は個々の学問の諸原理の第一のものは何かを認識するためにも役立ちうる。原理というものはすべてのうちで第一のものであるから、与えられた学問に固有の諸原理からそれを論ずることは不可能であって、むしろ個々の点についての一般に承認された意見を通じて、それを究明しなければならない。このことは弁証論に独特な、あるいは最も固有な仕事なのである。弁証論は検討吟味するに適している(エクセタスティケーexetastikh)ものであり、それゆえあらゆる学問の諸原理への道をにぎっているのである。」(101a-101b)

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