歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

辯證法にかんする覚書: カント 2

2005-05-10 | 哲学 Philosophy
「純粋理性の誤謬推理」

「考えるものとしての私」は「霊魂(=心)」といわれる。合理的心理学は、「私は考える」(Ich denke)という唯一の命題から、霊魂は「実体」(Substanz)であると考え、ここから霊魂の「非初質性」・「不滅性」・「人格性」・「精神性」・「物体との交互作用」のごときを導き出すのであるが、カントによると、「考えるものとしての私」とは「統覚の自我」として、「単純な、それ自身まったく内容を欠いた表象」であり、すべて客観を捨象せる「思惟形式」(die Form des Denkens)としての「自己意識」(Selbstbewußtsein)Jを意味している。それは、「限定する(bestimmend)自己」の意識であって「限定され得る(bestimmbar)自己」の意識ではない。それは「概念」であるとすらもいうことはできず、むしろ「あらゆる概念に伴う一つの意識」にすぎないのであり、「あらゆるカテゴリーにその運載者(Vehikel)として随伴する」ものであって、「直観において与えられたもの」を意味しているのではない。したがって、それに「実体」というカテゴリーを適用するわけにはゆかぬ。

*合理的心理学の主張を、推論形式で表示すれば、次の如くなるであろう。

大前提: 主体(Subjekt)として以外に思惟せられ得ないものは実体(Substanz)である。
小前提: 思惟するもの(ein denkendes Wesen)は、主体Subjekt)として以外に思惟せられ得ないものである。
結論:  故に、思惟するものは実体である。

ここに媒概念は「主体(Subjekt)として以外に思惟せられ得ないもの」であるが、大前提においては「直観において与えられる主体として思惟せられるもの」を意味しているが、小前提においては「直観において与えられず、ただ思惟形式としての主体としてのみ思惟せられるもの」を意味している。従ってその推論は、媒概念多義性の誤謬推理であるということになる。

以上がカントの説明の要旨であるが、カントの当時、Subjekt (主体)とは、伝統的には「主語」の意味であり、今日でも、その言葉は、なおその意味に使われる場合が多い。「主語(Subjekt)が実体(Substanz)である」とは、アリストテレス以来、西洋哲学における伝統的な考え方である。それに反して小前提における《Subjekt》(主体)とは、経験論的な能力心理学を形相化し得たカントによって、はじめて新しい意味を与えられたのであって、先にのべた「先験的演繹論」は、そのためにカントが絶大の労苦を払ったことを我々に告げている。今日、日本語で「主観」と訳せられる意味は、ここではじめて与えられてくることになる。従って、このような形相的観念論の立場を獲得し得たカントにとって、「主語(Subjekt)が実体である」という伝統的命題は、ただちには肯定されなくなる。実体であり得るような「主語」(Subjekt)とは、感性的直観に与えられる「質料」を備えていなければならない。カントは、その意味に大前提を解する。

しかるに伝統的な意味で「主語(Subjekt)が実体でおる」といわれた場合の「主語」(Subjekt)は、感性的直観に与えられる質料を備えている必要はなかったのである。

《Subjekt》は日本語で一方では「主語」とも訳され、他方では「主観」とも訳される両方の意味をもっているともいえるわけであるから、それを利用していえば、前述の大前提に於ける《Subjekt》は「主語」の意味であり、小前提に於ける《Subjekt》は「主観」の意味であるから、この意味で、媒概念多義性の誤謬推理であるということにもなるのである。

しかしカントにおいて、Subjekt の「主観」としての意味は、なお曖昧な点を残している。それはなお、伝統的な形而上学的存在論のモティフを残している。

小前提において「思惟する私はSubjekt(主体)として以外に思惟せられ得ぬものである」という場合、この《Subjekt》(主体)とは、感性的直観における質料を欠いた思惟形式であり、「限定する自己の意識」として自発性において捉えられながら、なお固定化せられている。この意味でカントはそれが「思惟せられたもの」であるというのであるが、このように固定化せられて捉えられているために、思惟という作用の「主体」であり「基体」として、それがふたたび「実体」として想定せられ得る道が開かれているのである。これを独断的に想定するなら、伝統的な合理的心理学への逆転であるが、カントの場合には、理性統一のための「発見的原理」として想定するという作業仮設の意味で許容されるのであり、さらに道徳哲学で進んで霊.魂の不死が要請され得る途を開いておくのである。

これは伝統的形而上学の全き破壊ではなく、その変貌・浄化であり、実は伝統的形而上学の人間学化のカント的段階を意味するのである。《Subjekt》(主体)のカント的固定化を流動化する方向にカント以降のドイツ観念論は展則されたということができるであろう。

 合理的心理学は誤謬推理に基づいているとされることによって、在来の合理的心理学は根抵的な打撃を与えられ、心(霊.魂)の非物質性・不滅性・人格性のごときを立証することはできぬとせられたわけであるが、これと共に、またその反対を立証することも不可能とせられたわけである。「考えるもの」としての心(霊魂)には、「実体」のカテゴリーは適用できぬのであるから、「唯心論」(Spiritualismus)と共に「唯物論」(Materialismus)もまた成立し得ぬのである。しかしそれは「知識」(Wissen)としては成立し得ぬということであって、内的現象に関わる多くの悟性認識に理性統一を与えるための純粋理性概念としてこれを統制的に使用することは認められるのであり、さらに進んで、その積極的な決定は、「信仰」(Glauben)の領域に移されるのである。理論理性の問題であるよりは、むしろ実践理性の問題となるのである。


純粋理性の二律背反

「二律背反」とは、外観上、独断的なる二つの認識-「定立」(Thesis)と「反定立」(Antithesis)と-の間の矛盾をいう。

*純粋理性の二律背反は宇宙論的イデーに関わる。カントは、宇宙論的イデーを、カテゴリーの表を手引きとして提示する。(A.408-415, B.435-4429)
宇宙論的イデーは「現象の制約の系列の絶対的総体性」である。そこで宇宙論的イデーは、制約が系列をなす点に注目されることによって導かれる。

第一には分量のカテゴリーであるが、現象する量は時間と空間とである。ある与えられた時間に対する制約は、それに先行する時間であり、それに対する制約は、さらにそれに先行する時間である。そこでここに系列が成立し、或る与えられた時間までに経過せる全時間が、制約の全系列をなすのである。また或る与えられた空間に対する制約は、その空間を限界付ける、より大なる空間であり、その制約は、さらにそれを限界付ける、より大なる空間である。ここにも系列が成立し制約の系列の絶対的総体性というイデーが成立する。

 第二に質のカテゴリーでは、実在性即ち物質が被制約者とみなされ、これを内的に制約するものはその部分であり、さらに、それを制約するものは部分の部分である。かくしてここにも系列が成立し、完全なる分割というイデーが成立する。

 第三に関係のカテゴリーでは、因果性のカテゴリーが系列をなしている。被制約者としての結果から、制約としての原因へ、さらにその制約としての原因へとさかのぼり、かくて制約の全系列を構成することができる。

 第四に様相のカテゴリーでは、偶然的なるものが被制約者とみなされ、偶然的なるものを必然的ならしめるその制約へ、さらにその制約の制約へとさかのぼり、最後に、絶対必然性がその系列の総体性において見出されることになる。

 以上四種類の宇宙論的イデーに相応じて、純粋理性の二律背反は四種類成立する。
 
 カントによると、純粋理性の二律背反には、次の四種がある。

第一の二律背反
定立 「世界は時間上、はじまりを有し、空間上も限界の内に閉されている。」
反定立「世界は、時間上はじまりを有たず、空間上、限界をもたぬ。むしろ、時間に関しても空間に関しても無限である。」

第二の二律背反
定立 「世界における複合的実体は、いずれも単純なる部分より成る。一般に、単純なるもの、または単純なるものから合成せられるもののみが存在する。」
反定立「世界における複合せられたものは、決して単純なる部分から成立せず、また一般に世界には決して単純なるものは存在しない。」

第三の二律背反
定立 「自然の法則に従う因果性は、世界の諸現象が、ことごとくそこから導出せられ得る唯一のものではない。現象の説明には、なお自由による因果性(eine Kausalitaet durch Freiheit)を想定することが必要である。」
反定立「自由なるものはない。世界における一切は、もっぱら自然の法則に従って生起する。」.

第四の二律背反
定立 「世界には、その部分としてか、あるいは、その原因としてか、絶対に必然的なる存在体たる或るものが属する。」
反定立「世界のうちにも、また世界の外にも、世界の原因として、絶対に必然的なる存在体はどこにも存しない。」

カントはこれらの「定立」と「反定立」とに対して、それぞれ詳細な証明を行っている。これら両者が、それぞれ理論上、成立し得ることを示さんがためである。カントによると、「定立」の側は「独断論」(Dogmatism)を、「反定立」の側は「経験論」(Empirismus)を、それぞれ代表しているのである。これらの二律背反という難問に純粋理性が逢着するのは、世界、即ち現象の総括が、「与えられている」と考えるところに成立するのである。世界が時空上限界があるかないか。世界における物質の要素として単純なるものがあるかないか。世界には自由なるものがあるかないか。世界には、決して偶然的ならざる必然的なる存在体、自らによって存在する存在体があるかないか。これらの問に対して世界が「与えられている」ものと考えるから、その何れかでなければならないと考えるのであるが、しかし世界は、「それ自身においてあるもの」(=「物自体」)として「与えられている」ものでなく、実は、「現象」として、その総括が、我々に「課せられている」ものにほかならないのである。まことは「現象」であるものを「物自体」と考え、まことは「課せられている」ものを「与えられている」と考えるところに、純粋理性の二律背反という難問が生じたのに外ならぬ。

時間をどこまでも遡源し空間のひろがりをどこまでも拡大するということ、また物質をどこまでも分割してゆくということ、また因果の系列を遡源してどこまでも原因の原因を求めてゆくということ、さらにまた、偶然的なるものを必然的ならしめる必然性をどこまでも追求しゆくということ、これらの手続きはどこまでも「不定の範囲に」(in indefinitum)行われ得るのであって、我々にはこのようにして現象を総括することが「課せられている」のである。現象の総括そのものは、「与えられている」のではない。世界は、時・空上、有限であるともいえず無限であるともいえず、また世界には、単純なるものが有るともいえず無いともいえず、また自由なる原因があるともいえず無いともいえず、さらにまた絶対に必然的なる存在体があるともいえず無いともいえない。これを何れかに決定しようとする二律背反の定立も、反定立も、共に誤りであるといわなければならない。

 しかしながら第一と第二の二律背反と第三と第四の二律背反とでは、事情をやや異にしている。カントによると、第一と第二の二律背反においては、定立と反定立との矛盾は、いかにしても調停せられることはできぬが、第三と第四の二律背反においては、定立と反定立とが、共に他を否定して自己を絶対に主張することは誤りであるとしても、なお両者が共に真たり得るとして調停せられることは可能である。定立の側を物自体の世界に、反定立の側を現象の世界に関わらしめるなら、両者は共に真たり得るとして調停せられることができるであろう。
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