歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

小笠原登の医療思想その2

2005-08-20 |  宗教 Religion
中外日報の小笠原論文に対する早田皓の反論

前回、小笠原登に関する昭和16年の中外日報の記事、「癩は不治ではない 伝染説は全信できぬ 研究16年  小笠原博士談」を転載したが、これに対する療養所学派、長島愛生園医官早田皓の同紙によせた反論、「癩の遺伝説と治癒の限界に就て―京大小笠原博士に呈すー 」はどんなものであったか、それを検討しよう。早田は、この反論を次のように書き起こす。
「鐘が鳴るのか、撞木が鳴るのか、鐘と撞木の間が鳴る」穿った民謡であるが、之を学説に応用されると面倒なことになる。本年の春京大小笠原博士は談話の形式で本誌に癩は多分に遺伝であり、また癩は不治ならずとして、患者の随喜渇仰に値すべき説を発表されたが、本紙が医学専門雑誌でない関係から、一筆呈上に及ばうとは思つたもののご迷惑とさしひかへて見たが、良く考へて見れば本紙の読者層は主として宗教家であり、地方の指導者階級である以上之を放任して今更に癩が遺伝であったかと信じられては本病予防もいよいよ峠の見え出した今日この頃、徳川の初期、隔離事業がやつと緒に就いた處をキリシタン禁制と一所におぢゃんになり、三百年の放任主義が遂に明治初頭の癩暗黒時代を現出したことを思えば、敢て一言博士に苦言を呈し、併せて読者諸賢の癩予防事業に対する全幅のご協力をお願いしたく筆を執った次第である。筆者は博士には昭和八年以来御厚誼を願っており感情上の問題ではなく純学問的討論であることを初頭に於て御断り申し上げて論旨を勧めて行く。」
まず早田は、小笠原の主張を要約した新聞記事が「伝染説は全信できぬ」という見出しを掲げたことを取り上げ、小笠原が、らいは遺伝病だというすでに論破された学説に固執しているといって非難した。これは、絶対隔離政策を推進した療養所学派が、小笠原説を非難するときの常套文句であったが、彼らは、小笠原がすでに1931年に「癩は遺伝病である」ということを「三つの迷信」のうちの一つとして斥けたことを無視している。小笠原の論点は、らい菌に触れただけでは滅多に感染が起こらないこと、夫婦の間で感染発病するケースが稀であることであった。従って、配偶者が癩であったからといって悲観する必要は全くない、というのが本来の論点であった。

「癩は強烈な伝染病ではない」という小笠原説の核心については、早田はどういっていたか。

「夫婦間に癩の発病が少ない、すなわち夫婦間に於ける伝染は何百例に就いて一例ほどしかないといはれる、これは少なくとも日本においては事実である」

癩は成人同士の間ではめったに伝染しないこと、この根本に於いて早田は小笠原の主張を認めている。それだけでなく

「(小笠原)博士の御祖父が患者を世話し、博士も幼少時代に於いて殆ど同居生活を続けられたが、未だに癩を発病しないと言われ、同じ浴槽で入浴されたとのことであるが、太田教授の最近の研究では、60度で既に癩菌は死ぬ由であるし、入浴ということ自身が本病予防上重大な役目を演ずるので、草津に於いては、健康者で嘗て癩の発病した例がないとの伝説さへある。石鹸の使用量と癩の発生は反比例するともいはれており、皮膚を清潔にすれば、少なくも余り危険なものではない。」
と言っている。

次に断種については「重症者においては梅毒の場合と同じく、胎内感染がみとめられる」ことと「先天癩の子供の暗黒さを考えてやらねばならぬ」ことから、

「断種法を実行することは楽しみの少ない癩患者に対して、僅かながらも人生を味わせる親心であり、素質遺伝を肯定するからでもなんでもなく、病的な子供を必要としない、大和民族の大英断である」

と述べている。そして、「癩は不治ではない」という小笠原の論点に対しては、癩が完治するなどということはあり得ないとし、早田は次のように反論した。
「自覚症状がなければ治癒したと仮定が真理なら、我が国一万五千の癩者はたちどころに、二千人に減じ得る。誤れる仮定のもとに治癒を決定し恐るべき伝染病患者を世に送る事は、医人としての重大な罪悪である。情に負けて人工妊娠中絶、あるいは伝染病患者の届出でを励行しない徒と何等異ならない。厳たる科学的観察と冷静なる判断のもとにのみ決すべき治癒の問題を軽々に取り扱うことは、果たして真の医人であろうか。」

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