歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

小笠原登の医療思想その3

2005-08-19 |  宗教 Religion
小笠原の解答-我が診療所よりみたる癩

中外日報に於ける早田皓の小笠原批判は、結論を見れば判るように、大日本帝国の国策として、らい病を撲滅することが第一義的と定められたのだから、小笠原もそれに従えというにつきる。医学上の知見としては、小笠原の「体質説」は結局は遺伝説にほかならぬと、位置づけた上で、早田は一応それに反対するデータを揃えはしたが、結局のところ「癩は強烈な伝染病ではない」という小笠原の意見は認めたのである。

それでは、それほど弱い伝染性しか持たないものをなぜ強制的に絶対隔離するのかというと、この病気が不治であるというのが、その論点であった。これに対して、小笠原は中外日報紙で、この早田の批判に対して、あくまでもひとりの臨床医としての医療経験に基づき、自分の云う体質説が遺伝説とはことなることを次のように説明した。
「ここに誤解してはならぬことがある。癩に罹りやすき素質が遺伝しうるものとするならば、子々孫々に伝わって永遠に危害を貽すものであると考へてはならぬ事である。凡そ、天地間に常住なるものは一つもない。恒に転変を続けているものである。また自存するものも一つもない。万有の相関関係によって流転の真っ直中に於いて仮に一時存立するにとどまる。癩性素質も亦此の鉄則に漏れぬのである。環境の変化はよくこの素質に転化を与える。癩に罹りやすき素質も亦生活法の改善を行ふだけにても消失する。
 地方には癩系と称せられてゐる家があって、有名であるにもかかはらず、今日は一介の患者すらないことが通例となってゐる。かた、某県に於いて、舊幕時代に患者を放逐した小島があって、現在の戸数63戸ほどであるが、何れも皆患者の子孫のみであると聴いてゐる。しかるに該島には今ひとりの患者すらないのみならず、所属隊の壮丁成績が頗る佳良であるといふのである。この事実は、また、癩に罹りやすき素質も亦環境によって消失するものであることを察知せしめる事実である。」
 つまり、遺伝病であるならば、環境の如何によらず、患者が発生するはずであるが、癩に罹りやすい感受性は、環境を改善することによって消失するというのが、小笠原の云う体質説と所謂遺伝説との決定的な違いなのであった。

 また、隔離せずとも癩の患者の数は、近代化とともに減少傾向にあることを統計によって示し、小笠原登は、
「明治24年以来、徴兵検査の際に発見せられた癩患者数は次第に減少したと共に、また北里博士の明治39年の統計に於いて、二万三千八百十五名であったのに対して、昭和十五年三月の統計では一万六千五十四名となってゐるのである。すなわち、隔離法が行われざる以前より、患者数は減少に向かっていたのである。」
という統計的事実を指摘している。

また、当時の外国の学者の説をも引用して
 「ジャンセルム氏は「ハンセン氏菌の感染力の弱きことは単純な観察がこれを論証するに十分である」と云ひ、ダウル、ロング両氏もまた、伝染力の微弱なことを認め、ヴェダー氏は「癩は伝染によって蔓延することが一般に認容せられてゐるにもかかわらず、吾人の期待を満足せしむるに足る論拠がない」と云っていつのと相通じるところがある。急激な伝染を思はしめるような特殊な例を挙揚し、之を一般化して考へてはならぬ。」
「クリングミュラー氏は、その著「癩」において、「癩問題は吾等の世紀に入って新時代にすすみ行ってゐる。なぜならば、今や、新時代の治療法によって癩不治のドグマは転覆しているといふことを確言し得るからである」
と療養所学派の隔離政策を批判している。この最後の言葉、すなわち「癩不治のドグマは」転覆している」というのは、この論文が掲載されたのが昭和十六年六月七日であることを考えると、まさに歴史の趨勢を言い当てたものであった。小笠原の結論を引用しよう。
「要するに、癩は細菌性の疾患ではあるが、その伝染力は頗る微弱であるたがために、俗眼をもってしては伝染性の有無を辧じがたきほどに緩慢なものであって、羅病の素質あるものが特に病原の害毒を受ける物であると考へられる。しかし、万物流転の鉄則に従って、癩羅病の素質は、なきものにも生じ、有るものには又消えうるものであって、永遠に伝わるといふのではない。クリングミュラー氏は「きわめて単純な衛生法にて癩の伝染を防ぐに十分である」といってゐる。患者諸君は絶望する所なく、治療に専念せられんことを希望してここに筆をおく。」

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