歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

キリスト者と靖国神社その2

2005-08-23 |  宗教 Religion
曽野綾子氏が「諸君」の九月号に「一人の国民として、一人のキリスト者として足す国に参ります」という発言と呼応するかのように、「正論」の9月号に、富岡幸一郎氏の「キリスト信徒の靖国体験」が掲載されていた。曽野氏が、日本の戦前の愛国教育を受けた世代のカトリック信徒であるのに対して、富岡氏は戦後世代のプロテスタントの信徒とのことである。富岡氏は、今年6月にはじめて靖国神社に参拝し、次のような感想を述べている。
私(富岡)は三十歳を過ぎて、プロテスタントの教会で洗礼を受けたキリスト者である。靖国神社を、自らが信仰する神を礼拝する場所だとは思っていない。しかし、二拜二拍手一拜という神社の参拝の仕方を、とくに拒む者ではない。それは形式的だと非難されるかも知れないが、たとえば教会で行われる結婚式や葬儀に参列して、自分はキリスト教徒ではないから讃美歌は歌わない、といったらどうであろう。いや、浮世の義理でノンクリスチャンの人が教会に行くことはあっても、お前はキリスト者のくせに何を好きこのんで、今、問題となっている靖国神社などへ行くのか、と問われるかも知れない。答えは明瞭である。戦争で命を落とした多くの日本人があったことを改めて覚え、静かに鎮魂するためである。例年そうしているわけではなく、戦後六十年の歳に、戦争を知らぬ世代として実際に一度参拝してみたかったからである。(中略)参拝をし、遊就館を見て、私は靖国神社に来て良かったと思った。靖国は、近代国民国家となって没した人々を追悼する場所であり、それは宗派を越えて参拝できるところだと思う。靖国神社は「政教分離」の原則に反するとの見解が、キリスト者からも出されているが、それは國のために生命を捧げた人々を祭るための、国家儀式の施設であると考えるのが筋道であろう。(中略)マルクス主義がそうであったように、無宗教こそ最悪の宗教であると私(富岡氏)は考えるが、神を信じることは非理性的であると感じているらしい、現代の多くの日本人のみならず、神を信じている少数のクリスチャンの人々とも、靖国問題を真剣に語り合わなければならないと思っている。
一読して、靖国問題に関する富岡氏の、あたりさわりのない一般論から、突如として、「靖国は宗教施設ではない」かのような結論を出す、あまりのナイーブさ、もしくは歴史を無視した議論の運びに驚いた。

  戦前のキリスト教とがこぞって靖国神社に参拝したときの自己正当化の論理こそ、まさに「靖国神社は超宗派的な国家的儀礼の施設である」というものであった。その論理は、キリスト教のみならず仏教の諸宗派も共に、「日本教」ともいうべき明治以降に成立した国家的宗教の中に統合することを正当化したのである。つまり靖国参拝は、「日本教」に帰依するかどうかの一種の「踏み絵」の如き役割を果たしたということは、日本の戦時中のキリスト教の歴史の教えるところである。

  「靖国神社に一度行ってみたかった」とのことであるが、見学はしても参拝などはされるべきでなかったろう。「遊就館」を見学して何に感銘を受けたのか。そこでは、日本の戦争を正当化する趣旨の展示と、戦争映画が上映され、大陸侵略を罪とは考えない国家的エゴイズムが礼賛されている。

富岡氏については、私はこれまでどのような人であるか全く知らなかったが、昨年度、無教会主義キリスト教に縁の深い今井館で、「バルトのロマ書」に関する講義を行った人であると側聞して非常に驚いた。しかも、氏は、内村鑑三に関する著作もあるということ。

 一体、富岡氏は、あのバルトのロマ書に明瞭に現れている「宗教の絶対否定」をどのように読まれたのであろうか。バルトこそは、ドイツの国家主義・民族主義に妥協したキリスト教会に対して、ラジカルな「否」を突きつけた神学者であるが、それは宗教という美名を持つ全体主義の絶対否定に基づく者であった。靖国神社は、英霊を祭り、招魂の儀式を行うまぎれもない宗教施設である。富岡氏は、宗教的なるものが、どれほど華麗な儀式をおこなおうとも、所詮は「肉の秩序」に属するものであるというバルトの宗教批判をどのように読んだのであろうか。

あるいは、内村鑑三の教育勅語礼拝拒否という行動を、富岡氏はどのように評価されるのであろうか。公立学校にご真影を飾り、教育勅語に礼拝すると言うことは、国家によって強制された宗教儀礼であり、内村がその礼拝に従わなかったために非国民と呼ばれ、職を失い、家族共々手酷い迫害を受けたという歴史的事実をどう思われるのか。卒業式で国旗や国歌に敬意を表しないと云うだけで処罰されるごとき偏狭なる「愛国」心が教育の現場で復活しつつある現在、内村にゆかりのある今井館で、バルトのロマ書を「講義」されたという富岡氏の弁明を聞きたいものである。
Comments (6)
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