歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

小笠原登の医療思想その4

2005-08-18 |  宗教 Religion
早田皓の再反論

小笠原の「我が診察室よりみたる癩」が掲載された後で、早田皓は、昭和16年7月4日の中外日報で再び、「癩は伝染病なり」という論文を発表して、療養所学派の強制隔離政策のキャンペーンを次のように展開した。

これは早田自身がはじめにことわっているように、小笠原の諸説は無関係に

(1)癩の発病は遺伝的関係を有しない
(2)癩の治癒が困難であること
(3)現在に於ける癩予防事業の方向
の三点を論じた。

それらは、彼の属する療養所学派の医療政策そのものであるが、(3)の結論部に於いて小笠原に言及しているので、その箇所を引用しよう。
「癩の治療は前述のごとく困難である、羅患を防止させる以外に蔓延を停止させる策はない。環境衛生の完備によって或いは軽症者との同居なら何等支障を来さないようになるかも知れない。しかし、その対象たるや全国七千万の同胞に及ぼさなければならない。僅かに残余五千名の隔離により本病が根絶せしめられ得るならばこれほど容易なことはないであろう。即ち一万六千の絶対隔離の断行こそ本病絶滅の捷径である。
ここで、「僅かに残余五千名の隔離により本病が根絶せしめられ得るならばこれほど容易なことはないであろう。」という箇所に注意したい。隔離押された一人一人の人間の命の重みという視点はそこにはない。「即ち一万六千の絶対隔離の断行こそ本病絶滅の捷径である」というが、はたして絶対隔離の断行が実際に患者の新規発生を減少させるのに効果があったのかどうか、それは国民の衛生環境、栄養水準の向上以上に有効なファクターであったのかどうか、その点に関する学問的、統計的資料を早田は提出していない。光田派の医師の一人でもあった内田守が戦後に発表した論文によると、癩患者の新規発生の現象と言うことと上水道の普及ということには強い因果関係があるが、そういう統計的事実を調べようと言う姿勢も見あたらないのである。
 早田の議論は、次に大東亜戦争開始前の状況を反映して、次のような議論へと移っていく。
 東亜共栄圏には癩が多い、志那に百万、印度に十万、果して伝へられる如きものかは不明であらうが、何れはこれらの癩者にも福音を与える時が来よう。まず隔離、新患者の根絶、しかしこれによっても療養所内には多数の癩者は其の病と闘って居る。新薬の発見、新治療法の創案もまた望みなしとはしない。難を捨てて易につく、或いは大丈夫の志ではないかも知れないが、いたずらに聲を大にし犠牲者の蔟出を来すことも大丈夫たるものの為す所ではあるまい。すなわち曰く「まず所謂撞木を処理せよ」と。」
早田自身は沖縄の療養所に派遣されたが、それのみならず、韓国や台湾の療養所もこのような光田イズムにしたがって運営され、強制隔離政策が実施された。
 早田は、驚くべき事に、明石海人の短歌まで持ち出して、それを強制隔離政策の正当化に利用している。
「「鐘が鳴るのか、撞木が鳴るのか」こんな議論を続けるより、一時も早く、撞木を処理することにある。撞木がなければ鐘も鳴らぬ、三千年来、苦しんだ業病癩の根絶は、既に今一歩の先に迫って居る。「日の本の癩者に生れて我悔ゆるなし」と歌った一癩者の聲は、全国十余箇所の療養所内で生活する九千の病者の聲である。九重の雲深き處、仁風薫じ慈雨に浴する感激の生活は其の隔離政策においても何らの暗黒面なき世界に冠絶した救癩事業であることを知らねばならぬ。区々たる感情による誤れる診断、誤れる予後判定に由来する幾多の悲惨、「畳師の悔むともなく云ひつるは惜しみなく捨てし薬料のこと」「人参飲んで首くくり」の愚を演ぜしめざるにある。今や、上下一万五千の病者に安居の地を与え、楽業の土を分つことこそ我等大和民族の最初に実行すべき、民族浄化の聖業である。志那百万の癩を救い、印度十万の癩を助ける日こそ、八紘一宇の大理想顕現の明日であろう。」
はたして、このような強制隔離政策が、早田の自負していたように「何らの暗黒面なき世界に冠絶した救癩事業」であったかどうか、歴史は全く異なる事実を我々に示している。後で示すように、愛生園においても、沖縄の療養所においても、強制収容された患者達の戦争中の異常なる死亡率が、その一端を物語るであろう。

再論の結論部で、早田は、療養所への入所が、いかに癩者にとっても福音であるかを強調しつつ、小笠原について次のような評価を下している。
「(癩は不治であるが)然し治らないからあきらめて療養所に入院しろと云ったところで肯んずるものは殆どない。結局、軽快するから治療せよとすすめるが、一度療養所の門をくぐった時、病者の過半は再び社会生活への欲望を断念するほどに住みやすい處である。最近においては、岡山医大では、癩と診断したものは殆ど愛生園への紹介の労をとる。経済的な圧迫を加えられずに送りうる園内生活に感謝の念を生じないものは一人もない。癩全治の宣伝は世を誤らせること甚だしい、ことにその経済的負担は、その精神生活を悪化させること無限である。浮浪患者が脅迫をやり、窃盗を敢えてするのもその遠因は此処にある。 徒然の友として栄えある使命を達せんとするものは、病者にその正しき道を辿らしめねばならぬ。かう私が書いてきたとき、私の毒舌の対象は小笠原博士であると云ふのではない。私は博士の心境は一番よく知って居る心算である。博士は御祖父の遺志を継がれて真の病者の友として立たれたのである。病者の翹望はなんと言ってもその治癒にある。金オルガノゾルにより大風子油剤以上の効果に驚喜せられた博士は次第に此の薬の虜になられたものである。しかし治療を加えていく裡に次第に不満足の点が生じて来た。神経癩においての後遺症なるものの範囲を拡大されて、治癒の限界の程度を下げられた。しかし、慢性伝染病である関係から特に著名に実害が現れてこない。遂に癩菌そのものの存在すら否定される様になったわけである。伝染病でなければ、隔離は無用である。博士は遂にこんな考へかたから現在皮膚科特別診察室では、特に消毒を厳重にされていない。幼時における御祖父の感化であるかも知れない。かうして治癒の条件を非常に寛大にして浸潤の消褪だけでも治癒と決定されるに至ったものである。即ち、博士の許に於ける治癒率は百%にちかいものになった訳である。夜11時まで外来を許される博士の心やりも良く病者の心理を穿ったものである。同情心は遂に遺伝説にもおよび、伝染病者解放運動に迄進展して行った。前述した不徳義な面々とは雲泥の相違があるり、殊に清貧に安んじられた貴い姿は現世に菩薩を拝するの感がある。
 だが、今や、世相は一変した。個人個人の翹望を容れての医学より、民族全体の浄化を計る時機に到来した。一患者を解放することにより、僅かに少数の犠牲者を出すだけであるからといって、これを許すべき時ではない。将来の犠牲者をまず根絶し、而して後に現在の人たちを救うべき時である。真実に現在の人たちに福音をもたらすためには金オルガノゾルに百倍すべき偉効を有する薬剤を必要とするからである。折角の癩者に対する献身が、病者を溺愛するの余りにあらぬ方向に走りつつあるのを悲しむものであり、私は、今、博士の冷静なる御熟考、御再考を祈りつつ、この稿を終わるものである。
執筆者の早田皓は、長島愛生園医官で、光田健輔のもとで当時、「救らい」活動をしていた。この小笠原との論争の後で、「大東亜共栄圏」の救癩活動の一環として、内地の軽症患者を海を越えて外地に派遣しようと提案した人物でもあった。彼は、日本が侵略した東南アジア地域の癩患者を20万人と推定した上で、療養所を20カ所設置し、それに日本と朝鮮の軽症患者3000人に「個人主義を排撃した精神的な猛訓練」を施し、「全国12カ所に世界に比類なき病者の楽園を築き上げた日の本の癩者達は、御恵を遠く救はれざる民草に及ぼすべき大使命を負はされて居る。救癩挺身隊の出現之こそ日の本の癩者に生まれた幸を獲得する日でなくてなんであろう」と言っている。(「誰が東亜の癩を戡定するか」愛生 1942年4月号)

 早田皓は、のちに、沖縄愛楽園の園長となり、その地で沖縄に於ける癩患者の強制収容、強制労働に奔走した人物でもあった。

付録:愛生園と愛楽園の入所者数と死亡者数の推移

国立療養所    1940  1941  1942  1943  1944  1945  1946
長島愛生園(入所)1533  1784  1883  2009  1851  1478  1299
     (死亡) 119   138   167   163   227   332   163
沖縄愛楽園(入所) 304   357   483   503   835   657   518
     (死亡) 17   19   12   18   58   58   252     

沖縄愛楽園の死亡率が1945年に激増しているが、これは空襲によるものである。米軍が癩療養所を誤爆したことは、戦争犯罪であったが、この空襲時には、患者は全員防空壕に避難していたために、直接に爆撃で死亡したものは少数である。しかし、防空壕を掘る作業は患者の強制労働であり、そのなかでの生活という劣悪な環境が死亡率を増加させた。(清水寛 第二次世界大戦の障害者(1)-太平洋戦争下の精神障害者・ハンセン病者の人権-)埼玉大学紀要教育学科、39巻1号 1990)
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