歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

無教会の神学について

2005-08-25 |  宗教 Religion
 内村鑑三とその周辺の人々を無教会主義キリスト教の第一世代、塚本虎二、三谷隆正、矢内原忠雄等の諸氏を第二世代、関根正雄、高橋三郎、量義治等の諸氏を第三世代と、仮に言うことが出来るとすれば、現在は第四世代ということになるだろう。まえにこのブログで言及した松本馨さんは、そういう分類でいうならば第三世代に属する。つまり、時代で言えば、戦中戦後の試練の時を生き抜き、敗戦による日本人の価値観の転換を経験した世代である。

ところで、先月、京都の学会で無教会運動の第4世代のひとにお目にかかった。関根正雄先生の弟子であったということだったが、現在は、無教会に飽きたらぬものを感じていると言われた。そして、「無教会運動」は、すでにその歴史的使命を果たしたと言われ、私が「無教会」を過大に評価しすぎであると驚かれていた。

 私の無教会に対する関心は、関根正雄先生と量義治氏によるものである。とくに量義治氏の「無教会的神学の構想」「存在のアナロギアと信仰のアナロギア」という二つの論文には大いに触発された。

 量義治氏は、無教会的神学の重要性を強調して次のように言う。
関根正雄先生は無教会の真理性を確信されていたがゆえに、その伝道のはじめから自己批判としての無教会批判を敢行してこられた。たとえば、無教会は『見ゆる教会』を軽視してはならない、と言われる。あるいは無教会に於ける師弟関係の問題性を指摘される。また、あるいは内村鑑三を相対化する視座の必要性を説かれる。(中略)先生はこうのべておられる。『バルトが神学なき教会は自己批判を怠る結果、晩かれ早かれ異教的となると言った言葉を無教会主義は、他山の石として深く考えなければならない』と。先生のもろもろの無教会批判のなかでの根本的批判は、無教会に於ける神学無用論に対する批判ではなかろうか
量義治氏は、このように無教会主義のキリスト教に於ける神学の必要性を強調している。量義治氏が、念頭においているキリスト教神学は、ローマン・カトリックを代表するものとして、トマス・アキナスの神学大全、プロテスタントを代表するものとして、カール・バルトの教会教義学である。この二つの神学に対して、無教会主義キリスト教は、如何なるキリスト教的思惟をもって自己自身を理解し、そして自己を批判する原理となしうるか。

 この問題提起は、私自身のものでもある。「存在のアナロギア」(トマス)と「信仰のアナロギア」についての量氏の論考については、近い将来にコメントしたいが、無教会は、プロテスタント神学の伝統だけを念頭におくのではなく、「二千年のキリスト教の教会史に無教会はどのように接続するのか(高橋三郎)」という歴史意識にもとづいて、無教会の現在を神学的に思索しなければならぬだろう。

 私の基本的立脚点は、「無教会こそ真のカトリック(普遍の教会)」というものである。従来の無教会にたいする既成教会の位置づけは、無教会は終末論や再臨信仰に根ざす、日本の「特殊な」プロテスタント・キリスト教の一形態であるというものであった。これに対して、私は、無教会の特殊性ではなく、その「普遍性」を強調する。そして、この最も普遍的なるものの視点から、個人の信仰の実存の問題を捉えることをキリスト教的思惟の核心にあるものと考える。すなわち、国家とか民族とか教会とか階級とかいうごとき特殊なる「種」や「類」を越える普遍の教会こそ、そなわち「無教会」こそが、「真の普遍の教会」である。それと同時に、その「普遍の教会」は、形あるすべての教会を否定することによって、真に生かすものとなるべきこと、即ち教会を恒に新しく刷新する原理とならねばならない。

 無教会の「無」は、相対的な否定の立場ではなく、絶対否定の立場、有を否定する相対的無ではなく、絶対無である。「無」とは如何なる意味でも対象化し得ぬ普遍であり、かかるものの自己限定として我々の個が存在する。「絶対無」こそが、世界内存在にも、国家的存在にも解消されぬキリスト教的な個的実存、すなわち「人格(ペルソナ)」の成立する場所にほかならない。

Comments (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする