歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

インドで殉教した使徒トマスの伝承および「トマス福音書」についての個人的なコメント

2009-06-01 |  宗教 Religion

2009年に南印度の新興都市バンガロールに行ったときに、当地のカトリック・カルメル会の司祭から、使徒トマスがインドに布教し、その地で殉教したという伝承をインドのキリスト者は非常に大切にしているということを聞かされて、さもありなんと大いに頷いた事があった。

  たとえば、バンガロールにあるカルメル会の修道院には、「瞑想する使徒の画像(それはヒンズー教のヨガ行者・座禅する仏陀とよく似ていた)」が、講堂の壁画として飾られていた。ちょうどローマのサンピエトロ寺院が使徒ペテロの殉教の場所に立てられたのと同じように、インドのキリスト者にとっては、使徒トマスの殉教(これはトマス行伝にある)の地、インドで彼のキリスト教を継承するという考え方は自然なのである。 

 西洋諸国のキリスト教宣教が、帝国主義・植民地主義と深く結びついていたことは言うまでも無かろう。ところがインドにはスペイン人やイギリス人がキリスト教を伝道する遙か以前から、直接に使徒繼承のキリスト教が伝えられていたのである。したがって、インドではローマ典礼以前にシリア典礼に従う礼拝が行われていた。そして、インドのキリスト教徒の数は、ヒンズー教に比べれば少数派であるとはいえ、仏教徒の数よりも多いのである。 

 さて、福音書といえば西方に伝えられたキリスト教では、ローマカトリック・プロテスタント・ギリシャ正教をとわず、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの4つが聖典であって、トマス福音書なるものの存在を知らない人の方が多いのではないだろうか。我が国でも、基本的にキリスト教といえば西洋のものと考えるものが多いから、トマス福音書の存在を知っている人でも「外典」として、軽んじている人が多かったと思う。 

 西洋ではトマス福音書はグノーシス主義(信よりも自己認識を重んじるキリスト教)として異端視され、それを否定する論者の引用を通じてのみ知られていたのである。しかるに1945年にエジプトのナグハマディで、コプト語に翻訳されたトマス福音書のイエス語録が発見されるに及び、事態は大きく展開した。ナグハマディ文書の発見はある意味で摂理的な出来事であったのではないか。  

  私は、インド旅行から帰ってから、荒井献氏の懇切なる注解のついた「トマス福音書」を読み、その内容に深く感銘した。この5番目の福音書を読めば、4福音書のイエスのことが更に良く分かるであろうし、西方に伝えられたキリスト教では切り捨てられたイエスの教えの大切な内容を知ることが出来るという確信を得たのである。

 西方に伝えられたキリスト教は、率直に言ってその教義の本質に帝国主義的な所がある。唯一の神は絶対的な創造主であって、全能であり、万物を支配する「嫉む神」であり、他の神々や人間が自分と等しい存在となることを許さぬ我が儘な独裁者の如き存在である。トマス福音書は、このような宇宙を支配する気まぐれな創造主を究極のものとは見ない。「嫉む神」にまさる至高者から遣わされたイエスは、その至高者を知り、それと一つである存在である。

この世の専制君主として君臨している「神」は、実は自己を知らぬ未だ「無知」なる存在であり、イエスはそのような神以上の存在である。そしてイエスを先覚者としてイエスに倣う人間はだれでも自己の本質を認識することによって、イエスと同じ存在になることができる。

トマス福音書では、使徒トマスはこの意味で、イエスの生き方を自らのものとして、イエスをもっともよく理解した使徒であり、精神的なる意味でイエスの「双子」と呼ばれる。トマスとは「双子」という意味である。マタイによる福音書では、ペテロがイエスの後継者としてローマ教会の鍵をゆだねられたが、トマス福音書ではトマスこそ、イエスの心をペテロ以上に知る使徒として描かれている。 

人は自己が何ものであるかを認識したときに神を認識できるという思想は、アウグスチヌスにも見られるものであり、決して異端などではない。むしろ、絶対者として万物の上に君臨する神の観念のほうが、一神教の名前を借りた偶像崇拝であるといえるのではないか。このような偶像崇拝が人間を如何に抑圧し、どれほどひどい異端審問・宗教戦争を人類にもたらしたかを思えば、今日の世界に於いて、西方キリスト教の神学の中でイデオロギーとして絶対化された神よりも、トマス福音書のイエスの言葉の方に人々は共感するのではないだろうか。

 「イエスは言われた、「汝等を導くものが「見よ、御国は空にある」というならば、空の鳥が汝等に先んじるであろう。「御国は海にある」といえば、魚が汝等に先んじるであろう。そうではなくて、御国はまず汝等の内にあり、次に汝等の外にあるのだ。汝等が自己自身を知るときに、汝等は知られるのであり、生ける父の子等であるのは汝等であることが分かるであろう。しかし、汝等が自己自身を知らぬならば、汝等は貧困のうちに住むのであり、その貧困こそが汝等なのである。」(トマス福音書 イエス語録3) 

 

トマス福音書については、聖書学者の研究がこれから数多く為されるであろうが、現在の段階でのわたしのコメントを纏めておきたい。

序と第一のロゴス

これらは隠された言葉である。これを生けるイエスが語った。そしてデドモ・ユダ・トマスが書き記した。そして彼が言った、「この言葉の釈義を見出すものは死を味わうことが無いだろう。」

コメント

 「隠された言葉」(オクシュリンコン・パピルスのギリシャ語断片では、ホイ・ロゴイ・アポクリフォイとある)は、一般の読者に「公開された教え」ではなく、イエスと親しく霊的な交わりを持ったものに「霊的に啓示された内面的な教え」であるという意味であろう。

日本では、「アポクリファ」を「外典」と訳すことがあるが、これは「正典」の「外」の文書という意味であるから、「アポクリファ」を正典にいれなかった当時の公教会の立場を前提した翻訳である。アポクリファを大切な伝承として保存してきた人々の立場からすれば、公教会の「正典」が「顕教」であるならば、アポクリファは「密教」と訳すべきであろう。そして「密教」の立場からすれば、それは、「生けるイエス」が我々の心の奥底で語った言葉であるが故に、「顕教」よりも深い教えなのである。

 次に問題とすべきは、「生けるイエス」の解釈である。顕教の立場からすれば、これは「復活したイエス」の言葉である。前掲の荒井献の著書を読んだが、彼の解釈はグノーシス的であった。つまり、そもそもイエスは不死であり、十字架上での死は、単なる肉に於ける死であり、それは、信者を救うための方便であった。本来、神の子イエスは「永遠に生きている」のであり、死ぬことはない。そして、語録第一では、生けるイエスの言葉を釈義するものもまた、死を味わうことのない本来の自己を見出すであろうと、明言している。

「釈義」とはギリシャ語断片では「ヘルメーネイア」である。ヨハネ福音書の並行箇所と比較したい。そこでヨハネはわたしの言葉を守るものは、永遠に死を見ないであろう。(ヨハネ福音書 8-51) と言っている。「守る」と「釈義」の違いについて荒井献は、「ヨハネ福音書ではキリスト論が人間論に先行するが、トマス福音書では、人間論がキリスト論に先行する」と言っている。つまり、人間が真に人間となるためには、ロゴスの受肉、イエス・キリストの死と復活を信じ、イエス・キリストの言葉を守ることが必要であり、かくして初めて、人間は、永遠の生命に到るというのがヨハネの神学だというのである。これ対して、トマスの神学では、イエスの言葉の正しい解釈を通じて、我々は、我々自身の「本来の自己」が不死であることを自覚するのである。つまり、本来の自己を認識したものは、イエスと霊的な意味で「双子」なのであり、覺知をもたらしたもの(イエス)と、イエスの言葉を通して自己を認識したものは、同じ「覚者」なのである。

荒井献のトマス福音書解釈に対して、私は、暫定的ではあるが、次のような私自身の解釈を対比させよう。それは、グノーシス的解釈をその方向にさらに突破したような解釈をめざすものである。

 使徒トマスの立場でも、「釈義(ヘルメーネイア)」は単に知的に理解することではなく、その言葉によって生きることを意味しているのではないだろうか。それが我々の本来の自己の何ものであるかを教えるものであるといっても、その覺知(グノーシス)は、イエスの行いと十字架の死、復活という出来事によって、初めて弟子達に自覚されたのである。イエスが「一粒の麦」として死ななければ、弟子達は、彼らの本来の自己が何ものであるか、つまり自己が神の子であることを自覺しはしなかったであろう。本来の自己の自覚は、旧き自己に死ぬという絶対否定無くしてはありえない。その絶対否定を通じての復活ということを、弟子達は「十字架のイエスと共に死し、その復活に与る自己」として自覚したのである。

たんなる知性認識が、「覺知のキリスト教」の「覺知」なのではない。知性認識を越える「覺知」が宗教経験にとっては不可欠である。そういう「覺知」を私は、「グノーシス」などという手垢にまみれた言葉ではなく、西田幾多郎の言葉を援用して、「メタノエシス」あるいは、「ノエシス的超越」と呼びたい。そして田辺元が指摘したように、ノエシス的超越(メタノエシス)とは、メタノイア(懺悔=他者に対する罪の自覚)を本質的に伴うものでなければならない。「自覚」は「他者に対する罪」の自覚を伴わなければ「本来の自覚」ではないのである。それこそが、「キリスト教的自覚」の特色ではないか。

人間論とキリスト論との関係という問題は、確かに、トマス福音書とヨハネ福音書の神学を比較する上で、きわめて重要な論点であるが、トマスもまた復活のキリストを受け入れたが故に、ペテロと同じく困難な伝道の旅に出て、インドで殉教したのである。だから、決して、荒井が言うように「トマス福音書では、一般的な人間論がキリスト論に先行する」などとは言えないのである。そうではなくて、ヨハネ福音書とトマス福音書の違いは、おそらく、トマスの理解した「復活」とは「霊における復活」であり、これに対して、ヨハネ福音書が強調するのは、「肉体を伴った復活」であったのだろう。

それゆえに、ヨハネ福音書の中では、肉体を以てイエスが復活したことを信じようとしない(不信の)トマスにたいする言及(ヨハネ20:24-29)がある。トマス福音書の冒頭部分だけでも、実に重要な聖書解釈上の問題、そして單なる解釈問題だけではなく、「イエスの言葉を守ること、それによって生きる」とはいかなる意味であるのか、キリスト者にとって本質的な問題を再考させてくれることは間違いない。


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