第42回日本ホワイトヘッド・プロセス学会Symposium提題は
「有機体を支える知の枠組みをあたえる方法―多元的一性の視点から」でした。
「多元的一性」という術語に対してシンポジウム企画者の田村高幸氏は次のような説明を与えています。
〇多元的一性 ***多元であるものが相互に関係し合い相互に育みあうことを可能ならしめるシステム(一ということにする)のもつ性質
〇多元的一 ***多元である各々の成長によって、多元である各々によって支えられているものであり、多元である各々、そこから生まれる諸関係等を包み、多元である各々を相互に関係することや関係を見通し合うことを可能ならしめ、相互に助け合うことをも可能なならしめるもの
さて、田村氏のこの説明を聞いて、これは、なんらかの組織体を維持しつつ創造的に発展させる為の「管理の哲学」として非常に有効であると思いました。 田村氏のいう「多元的一性」の思想を、私の言葉で言い換えるならば、「統合的一性」ないし「多元的な統合性」となりますが、それは「創造的な経験論」の思想を、「管理の哲学」という実践的な社会哲学に応用したものであるということができるでしょう。『管理の哲学』とはホワイトヘッド学会前会長の村田晴夫氏の著書の題名でもありました。
ホワイトヘッドのいう「有機体の哲学」は、「創造活動と一と多」の織りなす三一的な力動的コスモロジーですが、それは、ヘーゲルの言う「思弁的哲学」の理念、すなわち「論理学、自然哲学、精神哲学」を円環的に相関させる「統合学」の試論と考えることができます。
ホワイトヘッド学会が継承すべき遺産の一つは、このような「管理の哲学」ないし「人間の学としての経営学」ともいうべき社会哲学であったことを想起しつつ、これを踏まえて現在という歴史的瞬間(カイロス)においてそれを活用し、将来へむけて「統合体の哲学」を創造的に進展させることが我々の学会の歴史的・世界的使命でしょう。
ホワイトヘッド学会が継承すべきもうひとつの遺産は、京都学派の宗教哲学とホワイトヘッドに由来する哲学的神学(プロセス神学)との統合です。 これには我々の学会達のすぐれた先駆的仕事、クレアモントやルーバンでプロセス神学を学ばれた多くの先達による先行研究があります。
我々の学会員達の宗教哲学は、決して米国のプロセス神学とおなじものではないことに注意すべきでしょう。
たとえば、延原時行氏は、渡米する前に開拓伝道をしつつ滝沢克己に師事されたラジカルなプロテスタントであり、「西田哲学とホワイトヘッドの間」で思索しつつ「仏教的なキリスト教の真理」を探求されました。
我々の学会の顧問である武田龍精氏は、浄土真宗の宗学とプロセス神学をともにまなばれ、科学時代の宗教のあり方、核戦争と環境破壊という「危機の時代」における宗教哲学の思索を続行されています。
このほか、山本誠作氏、花岡永子氏、尾崎誠氏など、ここでくわしくその貴重な仕事を紹介する余裕はありませんが、多くのわれわれの先達もまた、京都学派の宗教哲学思想とホワイトヘッドを手引きとしつつ、「歴史的世界の課題」を引き受ける試みをされた先駆者でした。
私自身は、ホワイトヘッド学会のほかに、「東西宗教交流学会(The Japan Society for Buddhist Christian studies)」にも関係していますが、宗教間対話の原則として、「多元的一」という概念の重要性を認識しています。
宗教間対話では、exclusivism, inclusivism, pluralism という三つの立場の内、最後のpluralism のみが真の対話を可能ならしめるという考え方が次第に一般的となっていますが、このような宗教多元主義に対しては、それは相対主義ないし折衷主義にすぎないから世界宗教のもつ普遍性ないし絶対性の要求と相容れないという批判がありました。キリスト教やイスラム教のような一神教の世界観では、宗教多元主義を否定する見方が主流であるとも言えるでしょう。
これに対して、私は、絶対者は(原理主義者のように)肯定的に主張されるときはかならず偶像崇拝になると考えますが、そのような偶像から解放されるためには、むしろ「相対に徹底」することによって、単なる多元主義を越える方法が必要です。
ホワイトヘッドの『有機体の哲学』やプロセス神学者のジョン・カブの『対話を越えて』に示唆されて、個々の宗教の文化形成的な活力を尊重し、他の諸宗教から学ぶことによって自己の属する宗教の独自の価値を再発見し、自己を創造的に刷新する道があることに気づき、「統合的多元論inclusive pluralism」 あるいは「多元的統合論plural inclusivism」 という考え方を、私は次第にとるようになっています。
自己と異なる宗教ないし文化に属する他者を、自己から隔離して「棲み分ける」のではなく、自他の境界を突破して、他者と対話することの意義を解明し、そしてその「対話によって/対話をこえて」、自己自身を創造的に変革することが大切です。
「多元的一」の「一」とは、静的な「モナド」ではなく、多と一の間の生成と存在の転換のリズムを伴った「一」です。それは、「特異性をもった一(singularity)」、すなわち「どのひとつも他とは異なる代替不可能な一」ですが、孤立した「モナド的な窓なき一」ではなく、すべての他者をうちに含むことによって「主體的一」として生成し、みずからを「新たなる客体的一」として、「すべての他者に自己自身を与えます。私は『統合体の哲学』で表現された「多元的な一」の力動性をこのように要約してみましたが、如何でしょうか。