ホワイトヘッドの教育論の現代的意義―古典教育と科学の統合
田中 裕
1 ホワイトヘッド自身が受けた古典教育の「公共性」
1861年に生まれたホワイトヘッドは「自伝的覚書」[1] のなかで、南部イングランド・ドーセットシャー州のシャーボン校で自分が受けた古典語学習と一体化した教養教育について語っている。10歳でラテン語を12歳でギリシャ語を学び始めたホワイトヘッドは、19歳6ヶ月に至るまで、休日以外毎日、ギリシャ・ラテンの古典的著作について数頁ずつ解釈しつつ文法を学んだおかげで、登校前には何頁ものラテン語文法規則をすべてラテン語で暗唱、引用文で例証することができるようになったという。後にケンブリッジで数学を専攻したホワイトヘッドは、数学の学習を間に挟みつつ、ヘロドトス、クセノポン、ツキディデスなどの歴史書を含む古典の学習によって、ペリクレス時代のアテネの民主制を大英帝国の民主主義と重ね合わせつつ、「近代生活を古代文明と無意識のうちに比較させる古典の授業」が如何に楽しいものであったかを回想している。さらに、このような古典教育は人文教育だけではなく宗教教育も包含していた。ベネディクト修道会の教育機関として西暦741年に創立されたという伝承を持つシャーボン校は、古典語による教養教育のなかに、キリスト教的な宗教教育を統合していた。毎週日曜午後と月曜日朝の聖書の授業では、英訳聖書(欽定訳聖書)ではなく、新約聖書はギリシャ語原文、旧約聖書はアレクサンドリアのユダヤ人達がキリスト教成立以前にヘブライ語からギリシャ語に翻訳し、新約聖書のギリシャ語にも多大の影響を与えた「七〇人訳聖書(Septuaginta)」が読まれた。「学校で誰かが聖書を英語で読んでいるなどと聞いたこともなかった」と言うホワイトヘッドは、「ギリシャ語で宗教を学ぶものにおのずから備わる中庸の美徳(Golden Mean)」を重視し、「プラトンの薫陶を受けていたアレクサンドリアのユダヤ人たちが、五月のドーセットシャー州の修道院の建物(シャーボン校の校舎でもあった)と私の心の中で溶け合っている」と当時を回想している。
ギリシャ語聖書による宗教教育と古典重視の人文教育を少年時代に受けたということは、東方教会の霊性に由来するキリスト教的プラトン主義の伝統とホワイトヘッドの晩年の宗教哲学との関係を考える上で重要である。ホワイトヘッドの祖父はイギリスの国教会の牧師であったが、この教会は、ローマ・カトリック教会と同じく「カトリック(普遍の教会)」を名乗る「聖公会」であり、キリスト教教会の持つ古き「伝統」と「公共性」を大切にしていた。聖公会の聖職者達は、「教会と国家によって神に奉仕する」ことをモットーとしていたが、彼等は、ラテン語を公共語とする西方教会の伝統だけではなく、ギリシャ語を公共語とする東方教会(ギリシャ正教)の霊性的伝統もまた重視したのである。
ホワイトヘッドの晩年の宗教哲学は、『過程と実在』の最終章「神と世界」で展開されているが、そこで彼が使用しているキーワードは「神化(テオーシス)」である。[2] この語は対象化しえぬ神の活動(エネルゲイア)と、恩寵に基づく人間の自由な「協働(シュネルギア)を重視する東方教会の霊性的伝統に由来するものである。有限なる世界と無限なる神との活きた相互関係にもとづく「万有の神化」を主題とするホワイトヘッドの形而上学は、東方教会の「受肉の形而上学」を独自な形で20世紀において刷新し展開したものだということができるだろう。
ところで英国の中高等教育をになう代表的な学校は「公共学校(public school)」と呼ばれるが、これは日本でいうならば「公立学校」ではなく「私立学校」である。国家や行政の支配から独立した「私立」学校が、なぜ英国では「公共学校」と呼ばれるかは、学校教育の公共性にかんするひとつの大切な視点を与えているように思う。それは単に私的利益を求めない公共機関ではあることを示すという税法上の理由だけではなく、「普遍のキリスト教」の宗教的な教育理念が根底にあると考えるべきではなかろうか。
キリスト教の信仰告白の起源に他ならない初代キリスト教徒の「使徒のしるし」は、一人称単数形で「私は信じる credo」という形で宣言する。「普遍の教会」に所属するものは、「一個人の立場」で「公に」信仰を宣言するのであって、「我々は信じる」という複数形で特殊な宗派団体への帰属関係を宣言するのではない。言い換えれば、最も普遍的な公共性は、一人称単数の「私」の告白を原点としており、その立場からすれば、個人を越えるように見える組織や政府のもつ公共性よりも更に普遍的な公共性の理念の表明という性格をもっている。このような「個の人格」を重視する立場は、個人の人権の尊重や信仰の自由を支える「公共性」を重視する立場であり、公共性の名を借りて私的利益を追求する特殊な集団的イデオロギーを批判することを可能ならしめる「個に具体化した普遍」の立場であろう。このように何処までも自由なる個の単独者性に立脚しつつ、他者との連帯を求め、常に異質なもの対立するものの統合を自己と公共世界に於て求める立場こそ、ホワイトヘッドの宗教哲学と文明論および教育論の根底にあるものであるが、その淵源のひとつは、彼が受けた「公共学校」での教養教育にあったと言って良いであろう。
2 ケンブリッジ大学の「使徒団」とプラトン的対話による自己啓発
1880年にホワイトヘッドは19歳でケンブリッジ大学のトリニティカレッジに入学するが、そこでは「純粋数学と応用数学以外の教室に足を踏み入れたことはない」と述べている。彼は、ケンブリッジ大学では専門教育の科目のみを受講したわけであるが、実は講義は教育の一面に過ぎず、午後6時か7時頃夕食と共に始まり、十時頃まで続く友人達とので、知的会話が、その専門教育を補うものとしてあった。この知的会話を行った友人達は専門科目の一致によって作られたのではなく、古典語による教養教育を受けてきた仲間達と共に政治、宗教、哲学、文学の全ての領域が論じたという。ここでの知的刺激を受けて、ホワイトヘッドは1885年に数学専攻の特別研究員(フェロウ)になるまえにカントの純粋理性批判の一部を殆ど暗唱するまでになっていた。それは、「プラトンの対話の日常版」という様相を呈していた当時のケンブリッジ式の教養教育の特徴であった。そして、1820年代後半に詩人テニスンが友人達と共に始めた「学会(ザ・ソサイアティ)」―外部からは「使徒団(アポスルズ)」と呼ばれていた―の例会は、学生のみならず、卒業生―とくにケンブリッジに週末を過ごしに来た判事、科学者、国会議員―も含めて、毎土曜日午後10時から翌朝まで、プラトンの方法を踏襲する自由な哲学的討論の場があった。後にホワイトヘッドの勧めで1892年に「使徒団」に加えられたバートランド・ラッセルによれば、
「この集会で議論するに当たっては、何のタブーも設けないこと、何の制限もおかないこと、どんなことを言ってもショッキングなこととは考えないこと、いかなる推測も理論も絶対に自由であって何等の妨げもないこと」[3]
が根本方針であった。「使徒団」という通称は、創始者達が12人であったということに由来するが、そこでは特定のイデオロギーを宣伝することが目指されていたのではない。「使徒のしるし」はいかなるドグマも究極のものと見做さない「知的誠実」ということであり、「画一性の福音」も「力の福音」も斥けられた。[4] すなわち、自己の思想と根本的に対立する異論にも謙虚に耳を傾け、自己が公理として暗黙の下に前提していたことを認めないものを積極的に対話の相手とすることによって理性的な討議を続行するという意味での「プラトン的な弁証法・対話術(ディアレクティケー)」の実践が重んじられたのである。清教徒的な息苦しい家庭の雰囲気の下で育てられたラッセルは、後に彼の自伝の中で、この「使徒団」の一員となったことが彼の精神を如何に自由にしてくれたかを感激を以て語っている。
プラトン哲学の神髄は、イデア説や二世界説のような所謂プラトン主義のドグマにあるのではなく、我々自身が「公理」と考えてきたものを、異質な思想を持つ他者の前で常に批判的な吟味に晒し、そのような「公理」のもつ独断的性格を乗り越えて、自己と他者の対立するドグマをさらに越えていく「普遍性」をめざす探求にほかならないからである。プラトン対話編の自由な精神の働きを直観するものにとっては、アリストテレスのイデア説批判であれ、ニーチェの反ソクラテス主義であれ、プラトン主義に対する有名な反論ないし異論は、すでにプラトン自身によって、「対話編」の中で先取りされていること、そのような徹底した自己吟味の精神こそがプラトンの弁証法(対話術)の精神であることに気づくであろう。このことは、「西洋哲学の伝統をプラトンの対話編の脚注」として要約したホワイトヘッドのプラトン理解の根本的特徴であったが、そのルーツをたどっていくならば、ケンブリッジ大学の「使徒団」での自由討論の習慣がそれを涵養したといえるだろう。
ホワイトヘッド自身の受けた古典的教養教育は、現代の我々から見れば嘗ての大英帝国の民主制が「大衆支配」の衆愚政治に陥らないように、その制度を実質的に支えてきた知的エリートのものであって、宗教の世俗化、学問の専門化、大学の大衆化がすすみ、科学技術の進歩による国力の増大を至上命令とする近代国家には適合しないのではないかという見方もあるであろう。
1869年に『教養と無秩序』を書いたマシュー・アーノルドは、オックスフォード大学の詩学教授を務めた詩人でもあったが、彼のいう「教養」の背景にあるものは、ホワイトヘッドが受けた古典教育と通底するものがあったと言って良かろう。アーノルドは、ヘブライズムの道徳的宗教性とギリシャ哲学の知的誠実性を統合する「完全性の追求」をもって「教養」の定義し、「この世を我々が見いだしたものよりも、よりよく、より幸福にしてゆこうとする崇高な理想」のもとに「理性と神の意志を世におこなわしめる」こと、すなわち旧約聖書の道徳的エネルギーをプラトン的理想主義に結合することを力説したからである。[5]
しかしながら、1888年になくなったアーノルドの「教養主義」の理念とおなじようなものを繰り返すことだけがホワイトヘッドの教育論の特質ではない。文学と芸術の価値を力説する点では、ホワイトヘッドもアーノルドと同じであるが、ホワイトヘッドは同時にケンブリッジ大学とロンドン大学では応用数学と理論物理学を研究する科学者でもあった。「科学と近代世界」の関係を主題としたことは、アーノルドとは異なるホワイトヘッドの文明論と教育論の特質である。それは、あくまでも伝統的な教養教育の意義を保持しつつも、科学技術の発達が文明の行方を左右するようになった近代において生じる複雑な課題に対応するものでもあった。そのような教育論はとくにケンブリッジ大学を退職して彼が務めたロンドン大学時代の教育論の特質でもあった。
3 ロンドン大学時代のホワイトヘッドの教育論―教育の目的と自己啓発の三段階
1880年からホワイトヘッドは、最初は特待生として、次は特別研究員兼主任講師としてケンブリッジ大学に在籍し、弟子のバートランド・ラッセルとともに数理哲学の歴史に於ける記念碑的な大著「數學原理」第一巻を1910年に出版したが、その直後、彼はケンブリッジ大学を退職してロンドン大学に移った。1911年から1914年夏にかけてユニバーシティ・カレッジで、1914年から1924年夏までインペリアル理工カレッジの教授を務めたが、この時期に彼はロンドン大学理学部長、ロンドンの教育行政を司る学術評議会議長、市会議員、ゴールドスミス・カレッジ評議会長、大ロンドン自治区ポリテクニーク評議員など大学及び理工学校を含むロンドンの教育行政に深く関わるようになった。近代社会が直面する教育上の様々な問題について、ホワイトヘッドは次のように回想している。
14年にわたりロンドンの抱えている諸問題を経験したことは、近代産業社会における高等教育の問題にかんする私の考え方を変えた。大学の機能については狭い見解をとることが当時の風潮であったーまだ消えてはいないが。オクスフォード=ケンブリッジ型」とドイツ型とがあり、他のあらゆるタイプは無知から来る蔑視の対象となった。知的啓蒙をもとめる職工大衆、適切な知識を求めるあらゆる社会層の青年達、彼等のもたらす各種の問題―これらはみな、文明社会に於ける新たな要因であった。しかし、学問の世界は過去に浸りきっていた。ロンドン大学は、近代生活のこのあらたな問題に対処するための相異なる各種の施設の連合体である。(中略)実業家、弁護士、医師、科学者、文学者、学部長達―このあらたな教育問題に専任ないし兼任の男女のグループが、焦眉の急だった改革を達成しつつあった。こうした企画は彼等のものだけではなかった。アメリカでも、異なる状況の下で同様なグループが同様な諸問題を解決していた。教育のこのあらたな適応は文明を救済する要因の一つであると言っても言い過ぎではない。[6]
ロンドン大学時代のホワイトヘッドの教育論は、さまざまな機会に彼が行った講演が主体であるが、ここでは、まず、1916年にホワイトヘッドがイギリス数学者協会会長に就任したときの記念講演「教育の目的」を取り上げよう。この講演で、ホワイトヘッドは教養(culture)を、「思惟の能動性(Activity of thought)であり、美と人情に対する受容性(receptiveness to beauty and humane feeling)」と定義する。様々なテーマについて広く浅い断片的知識をもつ単なる「物知り」は、彼が定義する「教養」とは無縁である。自己啓発(self-development)の能力としての教養は、専門知識を哲学のように深め、芸術のように高めるものであるとのべる。
ホワイトヘッドのロンドン大学時代の教育論でもう一つ特筆すべきものは、1922年、ロンドン師範学校協会でおこなった「教育のリズム」と題した講演であろう。[7]音楽論はアウグスチヌスやプラトンにまで遡るヨーロッパの伝統的な教養教育の要諦であったが、ホワイトヘッドはその伝統を換骨奪胎して、近代の産業化時代の教養教育に適応させようとして居る点が注目される。
ホワイトヘッドはまずヘーゲルの正反合の三組みにもとづく知的成長の三段階に言及した後で、「教育理論にヘーゲルの考えを応用した場合、かかる名称は内容を伝えるのに適切なものとは思えぬ」と批判した上で、彼自身の知的成長の三段階説を提唱している。それは、「ロマンスの段階」「精密化の段階」「普遍化の段階」である。
第一段階の「ロマンスの段階」とは、「生の事実から出発して、いまだとらえられていない個々の関係がいかなるものかについての認識へと移行する過程で生じる」ロマンチックな感動である。第二段階の「精密化の段階」とは、言語や文法を習得し、認識相互の関係を正確に秩序立てることによって知識の範囲を広げ、諸事実の分析方法を教え込むことによって分析に適した多くの新事実を与える段階である。そしてホワイトヘッドが強調するのは、現場の教育でもっとも避けなければならないのは、第一段階抜きで第二段階から始めることである。その理由は、たとえ漠然としたものであっても、幅広い全体的な理解がなされていなかったならば、事象を分析したところで、抽象的で他との関連もない空虚な事実を無意味に叙述しただけで終わってしまうからである。そして最後の「普遍化の段階」とは、秩序立てられた概念や適切な処理がなされた専門的知識をもってするロマンチシズムへの復帰であり、前の二つの段階を統合するものである。ホワイトヘッドは、このようなリズム重視の教育論を、「自由と規律とのリズミックな要求」という論文の中でも更に詳しく展開しているが、主知主義的なヘーゲルの三段階の理性的なものの弁証法と違う点は、美的感性の涵養と情操教育が理性の発達に先行すべきだと言う論点である。それは大学に於てなされる教育活動のなかで、惰性的で応用力のない細分化された知識が無目的に学生に注入されていく結果、学生の創造性が低下し、思考が麻痺していく有様への警鐘でもあった。
4 ハーバード大学時代のホワイトヘッドの哲学における「宇宙の直観と感情」
ホワイトヘッドは1924年63歳の時にハーバード大学から哲学科教授として招聘され、以後1936年名誉教授になるまでアメリカで活動したが、この時期は、『科学と近代世界』、『宗教とその形成』、『過程と実在』『観念の冒険』といった彼の哲学上の主著が書かれた時代である。ケンブリッジ大学の時代が論理学と数学の哲学、ロンドン大学の時代が自然哲学であるのに対して、ハーバード大学の時代は形而上学と文明論をテーマとしていると言って良いであろう。この時代は、『科学と近代世界』の最終章をのぞけば主題的に教育を語った論文は少ないとはいえ、我々の宇宙と社会にかんする普遍的な理論を展開したかれの後期哲学は、教育の問題にもロンドン時代におとらず多大の示唆を与えるものである。
西洋の哲学史をプラトンの対話編の脚注にすぎないと喝破したホワイトヘッドは、同時に自己の提示する「有機体の哲学」が20世紀のプラトニズムの復興であるという自覚を持っていた。ドイツ理想主義が仏蘭西革命以後の時代の近代ヨーロッパに於けるプラトン主義の復興という側面をもっていたことと類比的に言えば、ホワイトヘッドの場合は、第一次世界大戦というヨーロッパの文明の危機と試練の経験を踏まえた上で、文明の未来のために、あらためてプラトンの哲学の精神を復興させようとしたものであるといってよかろう。
ホワイトヘッドの後期哲学がイギリスの経験論だけではなくシェリングやヘーゲルに代表されるドイツ理想主義との関わりが深いということは従来たびたび指摘されてきた[8]が、ホワイトヘッドに先立つこと約100年前、ドイツ理想主義の全盛期、ベルリン大学の創設時に、国家や教育行政から独立した大学の学問の自由を力説し、ヘーゲルと対立しつつヘーゲルは異なる意味での「弁証法」―プラトン的な開かれた対話の精神―と、「解釈学」の始祖でもあったシュライエルマッハーの思想と対比することが、ホワイトヘッドの後期哲学と、それが教育の問題に対して有する意味をよりよく理解ならしめるであろう。[9]
ホワイトヘッドの後期形而上学とその宗教論を理解する鍵のひとつは、「宇宙(universe)」と「世界」との間の厳格な区別である。キリスト教の神学者は「世界」と「神」の区別と関係を強調し、有神論と汎神論の選択肢を立てた上で「有神論」の優位を主張するものであるが、ホワイトヘッドは『宗教とその形成』でキリスト教のみならず仏教にも世界宗教としての普遍性を認めていた関係上、『観念の冒険』の文明論および宗教論では、「現実世界」と区別されつつも、「現実世界」と不可分の関係にある「宇宙」のほうを「神」にかわるキーワードとして使っているのである。[10]
「宇宙」という語のこのようなホワイトヘッド的用法は、シュライエルマッハーの『宗教論』にその先駆的な形をもっていることに注意したい。「宗教を軽蔑する教養人への講話」として書かれたシュライエルマッハーの『宗教論は』、啓蒙主義とロマン主義の洗礼を受けた教養人との対話のために、キリスト教的教義学の用語を使わず、また倫理道徳や政治からは独立の領域に宗教を確保するために、有限な個が無限なる宇宙を直観し感受するところに宗教の本質を見たが、このような「宇宙の直観と感情」こそは、ホワイトヘッドの形而上学の原点でもあった。ホワイトヘッドにとって、哲学とは一言で要約するならば「無限なる宇宙を有限なる言葉で表現しようとする試み」であり、そのような有限なる人間の理性的な営みにふさわしい作業は「対話において開かれた諸々のシステム(Open Systems in Dialogue」の統合にほかならないのである。[11]
「直観」という語は、シュライエルマッハーの場合は、おそらくシェリングの知的直観と同一視されることを恐れたためであろうか、『宗教論』の第二版以後では使用を差し控えるようになったし、「感情」もまた、哲学的な範疇としてではなく、「絶対依存の感情」として説かれるようなったこと、そのために彼の宗教論は、反理性主義という批判を浴びるようになったことは良く知られており、この点はホワイトヘッドとは違うところであろう。ホワイトヘッドの場合は、このような反理性主義の立場をとるものではなく、むしろ反理性主義の立場を否定せずに、それとの対話によって刷新された新たなる理性主義という性格を持つものである。したがって、彼の形而上学では、「宇宙の直観と感情」は、根本的な哲学的範疇となっている。たとえば宇宙の「直観envisagement」は『科学と近代世界』においては、現実の与件を越えて新しきものを創造していく創造性(基底的な活動力)を可能ならしめる「見る」働きとして、無限なるプラトン的形相の領域の三重の「直観」として表現されている。[12]
ホワイトヘッドの場合は、宇宙に於ける「感情feeling」もまた、諸々の活動的な個と、それぞれの個の内に多様なパースペクティブのもとに対象化された現実世界とを可能ならしめる「無限なる宇宙」の活きた関係性をあらわす根源語である。それは、ヘーゲルがシュライエルマッハーを揶揄したときに意味したような単に主観的かつ心情的な概念などではなく、主客の対立以前にあって主観と客観の双方を成立せしめる活動であり、自己と世界を結ぶ宇宙を貫く根源的にして具體的な関係性である。[13]
5 日本の教養教育の今後とホワイトヘッド―岡潔の思想との対比を通して
私はこの論文の第3節で、ロンドン時代のホワイトヘッドが理工系の大学で数学の専門教育を行う教員を対象とした講演会で、「美と人情に対する受容性」の涵養を重視したことに言及した。科学教育の基礎にある数学と美的感性と情意との間に存する密接な関係を指摘している点で、数学を情緒とは無縁の論理にのみ立脚する学問と見做す一般的通念とは全く異なったユニークな見解とも思われよう。しかし、これは決してホワイトヘッドだけの特殊な数学論ないし教養論なのではない。
日本の代表的な数学者の一人であり、多変数解析関数論の独創的な世界的業績によって文化勲章を受章した岡潔の数学論と教養論はホワイトヘッドの思想に深く通底するものがある。岡潔にとって、数学教育は情操教育と切り離すことが出来ず、情緒の涵養こそが、「ないものからあるものを作る」数学者の創造活動の根本であった。岡潔は、数学者リーマンの全集とともに道元禅師の「正法眼蔵」を座右の書として常に参照しており、また浄土教の明治時代の刷新者の一人であった山崎弁栄上人の念仏三昧の実践者でもあった。彼は、大乗仏教の唯識教学にも造詣が深く、学問的知識が人間に謙虚さを忘却させ自我への執着によって無意識のうちに抑圧と差別の構造を産み出すこと、そしてそのような「妄知」としての「分別知」を乗り越えることのできる「眞智」としての「無差別智」を重視していた。彼は、さらに座右の書として芭蕉の七部集と蕉風俳論をあげており、自分でも連句の実作を行っていたが、このような文学的教養が、小林秀雄との対話「人間の建設」や、蕉風俳諧についての山本健吉との文学的対談を可能ならしめたものであった。[14]
岡潔は晩年、様々な場所で日本の教育システムにかんする提言をしているが、そのひとつは、日本人の心を伝統的に形成してきた古典の教育によって情緒を涵養することが大切にすることがあげられている。ホワイトヘッドが人格形成をおこなった英国のパブリックスクールの教養教育の基礎はギリシャ語とラテン語であったが、それに対応するものは日本の場合は、漢文と古文による古典教育であろう。グローバリゼーションという掛け声のもとで、近代語の一つに過ぎない英語の学習に没頭する以前に、日本人の精神文化を形成した伝統を伝えるということが教育の一つの大切な務めである。ホワイトヘッドは英語ではなくギリシャ語で聖書を読んだが、それは漢文で仏典を読んできた我々日本人の父祖達の伝統と対応するであろう。仏教は日本だけではなく東アジアの精神文化の規定を為すものであり、イデオロギーを越えた普遍宗教としての大乗仏教の伝統に基づく教養教育は、科学的な専門知や形式的な倫理学だけでは与えることの出来ない宇宙論と社会論の深き教養の基盤を与えるであろう。
ホワイトヘッドの哲学は、ヨーロッパの人権や自由にかんする理念の根底にある宇宙論と社会論が何であったかを教えるものであった。「自由・平等・博愛」といった民主政治の根本理念を、単に外来思想の受売りないし押しつけと考えるのでは、排外的な国粋主義に顛落するであろう。それらを真に日本の伝統的な精神文化に受肉するためには、その背後にある「普遍のキリスト教」の精神的伝統から学ぶことが必要である。「自由(自在ないし無礙)」も「平等」も元来は大乗仏教に由来する宇宙的な広がりを持った概念であったことをおもえば、私は、キリスト教と仏教という二つの世界宗教を視野においたホワイトヘッドの哲学こそは、岡潔の力説したような「日本人の心」にさらなる宇宙的普遍性を与えると考えるものである。
[1] Alfred North Whitehead, “Autobiographical Notes” in Science and Philosophy, A Philosophical Paperback, New York , 1948, pp.9-21
[2] Alfred North Whitehead, Process and Reality, Corrected Edition, Ed.by David Griffin and Donald Scherburne, The Free Press, 1978, pp.342-351
[3] Bertrand Russell, Autobiography 1872-1914, George Allen and Unwin LTD, 1967, pp.68-69
[4] 人間の魂による思想の冒険を欠いたGospel of Uniformity も、他者の自由を尊重する説得ではなく暴力に訴えるGospel of Force も共にホワイトヘッドは文明の衰退をもたらすものと考えていた。A.N.Whitehead, Science and the Modern World, The macmilllan Company 1925, The Free Press, 1953, Chap.XIII pp.193-208参照
[5] マシュー・アーノルド、多田英二訳、「教養と無秩序」、岩波文庫、2015, 58頁参照
[6] Alfred North Whitehead, “Autobiographical Notes” (前掲書) pp.18-19
[7] Alfred North Whitehead, The Aims of Education, The Free Ppress, 1925, pp.15-28
[8] Whitehead und deutsche Idealismus, herausgegeben von R.Lucas, Jr. Antoon Braeckman, Peter Lang, Berlin・Frankfurt am Mein・New York・Paris, 1990
[9] シュライエルマッハーの思想史的意義については、山脇直司、「シュライエルマッハーの哲学思想学問体系」、廣松渉監修 講座「ドイツ観念論」弘文堂、第四巻「自然と自由の深淵」(1910)所収 (218-258頁)参照。また、シュライエルマッハーの解釈学や弁証法とホワイトヘッド哲学との関係については、Schleiermacher and Whitehead-Open Systems in Dialogue, Edited by Christine Helmer, Walter de Gruyer-・Berlin・NewYork, 2004 参照
[10] ホワイトヘッド自身の形而上学の用語を使って表現するならば、「現実世界(actual world)」とは一個の活動的生起(an actual occasion)において対象化された「既成の」現実的諸存在(actual entities)の「全体」をさすのであって、当該のその活動的生起に相対的に定まる有限なる結合体(nexus)である。このような閉じた有限な存在である「現実世界」に対して、「宇宙」とは、現在生成しつつある一個の活動的生起と現実世界との活きた相互関係がそこにおいて成りたつ「無限への開け」を示す言葉である。そしてこの「無限への開け」は第一義的には直観され感じられるものなのであって、我々の意識や悟性によって対象化されるものではないということがポイントである。
[11] 2003年にクレアモントで開催された「システムと生命―シュライエルマッハーとホワイトヘッド」という学術会議において、プロセス神学者のジョン・カブはシュライエルマッハーの『宗教論』を、多元主義の時代における宗教間対話(それは宗教を否定するものとの対話をも含む)」の可能性を示した先駆者として位置づけている。Schleiermacher and Whitehead-Open Systems in Dialogue, Edited by Christine Helmer, Walter de Gruyer-・Berlin・Newyork, 2004 pp.315-333参照。
[12] 三重の直観とは(1)永遠的客体の直観(2)もろもろの永遠的客体の総合という点から見た価値のもろもろの可能性の直観(3)未来を待ってはじめて成就される境位全体に加わらなければならない現実的事実の直観である。(SMW 105)ホワイトヘッドの言う直観(envisagement)は、フッサールの本質直観や範疇的直観と同じように、我々の経験が単なる感性的直観の所与を越えていくことを可能ならしめるものである。
[13]感情(feeling)とは、既存の他者と他者の世界をすべて肯定的に抱握(prehend)することによって新たなる主体としての自己を形成するはたらきである。実体的な自己が先ず存在して、それが他者を「感じる」というのではなく、諸々の「感情」が、感じる主体を目指すのである。ホワイトヘッドの宇宙的感情は、彼がカントの三批判書のなかで第三批判をもっとも重視し、「純粋理性批判」ではなく、「純粋感情批判(the critique of pure feeling)」こそが、第一批判(科学批判)と第二批判(道徳批判)の根底になければならぬと言ったことに対応している。
[14] 情緒の涵養を重視する岡潔の数学論・教育論・宗教論については、高瀬正仁、『岡潔とその時代』―評伝岡潔 ⅠおよびⅡ(医学評論社)2013が詳しい。
追記
本論稿は「教養教育と統合知」(山脇直司編、東京大学出版会、2018)に寄稿したものであるが、若干の改訂と補足をおこなった。