けふよりは詩編百五十 日に一篇読みつつゆけば 平和来なむか (南原繁ー『形相』所収)
75年前に南原繁の読んだこの短歌は、敗戦後の日本が、いかなる国をめざすべきか、その「理想(イデア=形相)」を聖書の詩編にもとめたものである。彼のひそみに倣って、これから、断続的にではあるが、『詩編に聴く』というテーマで「聖書と典礼」の研究を続けたい。
これは内村鑑三の『聖書の研究』を一つの手本としつつも、内村やその門弟達があまり問題としなかった典礼(ユダヤ教・東方キリスト教・西方キリスト教)のなかの聖書という視点をあらたに付け加えたい。私は、カトリック教会の伝統から深く学んだものでもあるので、単なる無教会運動の立場は取らないが、「無」に徹底した信仰は、 既成教会を否定せずにこれを完成に導くこと、そのいみでの「普遍の教会」となると考えるからである。
詩編がどのようなかたちで、ユダヤ教やキリスト教の典礼のなかで読み続けられてきたかを重視する。典礼聖歌、とくに原始キリスト教の典礼を直接に受け継いだ東方教会、その修道院の霊性と典礼に於いて詩編の詠唱が持っていた意味を知るためには、ヘブライ語で書かれたテキストだけでなく、70人訳ギリシャ語詩編にみられる詩編解釈も重要である。また、東方キリスト教の霊性を西方教会で受け継いだベネディクト修道会にはじまるミサの伝統の中で次第に発達したグレゴリオ聖歌と多声的な典礼音楽の統合の歴史をたどることも課題の一つである。
過去に遡ってユダヤ教の伝統を刷新したキリスト教の典礼の歴史をたどるだけでなく、詩編の霊性を現代人の日常生活の中で生きるかという将来に向けた眼差しも必要である。世俗を離脱した隠遁者としてではなく、在俗者として詩編を読み、詩編に聴く修道をめざしたい。
内村鑑三は、嘗て、フィリピの信徒への手紙4:8 を引用した後で、諸宗教の伝統に敬意を表して次のように言っている。
「キリスト教徒は、すべての人や物事のうちに真理を探り出さずにはいられないのだから。他の宗教に欠点を見いだして喜ぶキリスト教の代表者達は実に哀れな人たちである。キリスト教徒というものは、仏教であれ、儒教であれ、道教であれ、何であれ、そこに良いものを見いだしたなら喜ぶはずだ。彼の目は光を見いだすことには鋭敏であるが、闇を見ることには消極的なのだから。このようにキリスト教は、その真価を発揮するときには、世界のうちに最良のものを発見する力となる」
私自身のキリスト教の見方もこれと基本的に同じである。そしてさらにつけくわえることがあるとすれば、これは諸宗教の良いとこ取りという意味での折衷主義ではなく、内村がそうであったように、既成の諸宗教や諸文化が陥りやすい偶像崇拝の批判という預言者の精神を忘れぬ事が肝要であろう。