松山櫨(はぜ)復活奮闘日記

失われてしまった松山櫨の景観を復活させようと奮闘していく日々の記録。

櫨のお値段 江戸時代編 その1

2008-04-01 22:02:37 | 櫨ものがたり
ここ数日ガソリン税のことばかりTVや新聞で報道されています。
それでなんとなく連想したのが江戸時代の櫨のお値段です。
いったいどれくらいだったんでしょうね。

というわけで、櫨のバイブルの一つ、
「窮民夜光の珠」を引っ張り出してきてみました。

著者である那珂川村の庄屋の息子、若き高橋善蔵(22才)は、
享保15年(1730)ごろに思い立って、村の仲間ら2,3人と
肥前の国(今の佐賀県)に行き櫨(苗か種かは不明)を買い、
くわしく植え方を教えてもらって熱心に育て始めました。

※ちなみに松山櫨の発見者・武下武兵衛(善蔵より三才年上)もまた
その著作「農人錦の嚢」の中で
享保15年(1730)頃には櫨を既に植えていたと記述しています。

当時、村の中には
「大事なよく肥えた畑に、つまらない木をよう植えるわ。」と
せせら笑う人も多かったのですが、
善蔵は櫨を宝の木だと信じ、寝ても覚めても櫨の木のことばかり考え、
仕立て方を吟味し、肥料も品を変えては試験を続け
工夫を重ね続けていきます。

善蔵の苦労はやがて実を結びました。
利益になると知るやいなや、村人たちも植え始め
15年後の延享二年(1745)には、村中のほとんどの人が植えていたのです。

さて、その頃の櫨の値段の一例として
記述されている部分を見てみましょう。
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延享二年には村の六割の木に実がなって、
六十文銭で換算すると銀二貫三百匁ほどになり、
延享三年には七割の木に実がなり、
四貫五百匁ほどの櫨の売上げ代銀が村へ入った。
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ええっと、一貫は1000匁だから銀2300匁ってことですね。
んで、当時の値段を銀1匁=3700円(幕末はもうちょっと高くなる)で計算してみましょう。
ざっと8,510,000円となります。
翌年は4500匁だから16,650,000円。

ひええ~~~~~っ!!!そんなに金になってたんだ!
まるで急成長のベンチャー企業みたい。

とはいうものの六割の木って、一体どれくらいの本数なのかが
この記述ではわかりませんね。
そこで、明日はもうちょっと詳しい記述を見てみましょう。

※参考・江戸時代のお金の価値を調べるのに、
こちらのサイトを参考にさせていただきました。

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