縁側でちょっと一杯 in 別府

東京から別府に移住してきました。
のんびり温泉に浸かり、美味しい魚で一杯。
夢に見た生活を楽しんでいます。

芸術の見方 ~ anything goes

2006-06-02 23:56:00 | 芸術をひとかけら
 巷で『ダ・ヴィンチ・コード』がブームになっている。残念ながら僕は本を読んだことも映画を見たこともない。ダ・ヴィンチの作品そのものはいくつか見ている。『モナリザ』も『最後の晩餐』も見た。正直言って『モナリザ』は何故あれだけ騒がれる絵なのか、よくわからなかった。『モナリザ』の前はちょっとした人だかりだったが、思ったより小さいし、劣化のためか全体に暗い印象を受けた。
 一方『最後の晩餐』は、テーマは勿論、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会という絵のある場所、それに人数や時間を制限した絵の見せ方などから、とても厳かな感じがし、こちらも構えて見た、拝見させて頂いたことを覚えている。最近修復されたため色は鮮やかだった。

 ダ・ヴィンチが自らの作品に何かのメッセージを盛り込んでいたという話は『ダ・ヴィンチ・コード』以前からよく話題になっている。ルネッサンスの天才、美術だけでなく建築や数学など科学にも長けたダ・ヴィンチが後世に何かを訴えているのでは、というロマンも多分にあるのだろう。多くの人が言っているということは、まったく根拠のない話ではないのかもしれない。

 ところで、ダ・ヴィンチに限らず、絵画や音楽、更には文学作品なども含め、我々は芸術作品に関し、作者の意図をすべて理解する必要があるのだろうか。
 そんなことはどだい無理な話だし、そもそも必要ないと僕は思う。言ってみれば、あらゆる芸術作品は世に出された後、一人歩きするのであり、その時点で作者の手から離れ、それを見る人、聞く人、あるいは読む人の解釈にまかされるのだと思う。極論すれば、作者の意図とまったく逆の解釈をしようとも許される。などと言うと学校の先生に怒られそうだが、芸術とはそういうものでないだろうか。
 勿論、すべてを無視し自分勝手に解釈すれば良いと言うのではない。作者や時代背景、その芸術におけるルール・決め事などを理解することは大事だと思う。しかし、時代や文化など当時の社会的文脈や、作者の思想、信条などを超えたところに、芸術は存在するのではないだろうか。芸術の解釈、作者の思いをどのように受け止めるかは鑑賞者に委ねられているのである。

 『ダ・ヴィンチ・コード』は大変優れたミステリーであろう。ここで提起されたダ・ヴィンチのメッセージはキリスト教を冒涜すると物議を醸しているが、その真偽は別として、解釈、評価は本を読んだ人、映画を見た人が考えれば良い。
 これがイスラム教に係わる問題であればただでは済まないだろうが、カトリックを始めとするキリスト教は比較的冷静に対応しているようだ。これが寛容の精神なのだろうか。