25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

教育がこころもとない

2019年11月14日 | 社会・経済・政治
日本が経済大国としてアメリカに続いて第二位になったのは1980年から1990年くらいのことだろうか。こうどけいざい成長があったのは日本が戦争で荒れ地となったからである。荒れ地からの再出発だから成長
当たり前で、しかもアメリカが応援してくれたのだから、一生懸命働けば右肩上がりに成長したのである。
 その成長している間にいくつかのことを徹底しておくべきだった。とくに教育については有識者の知識や先進国の教育思想などについて議論し、100年の計を立てるべきであった。

 教師が教師を虐める。生徒が生徒を虐める。教師本人の代わりに教育委員会や校長が謝る。社会人になって大学いける可能性がほとんどない。高校を卒業したら次は大学だと思いこんでいる。幼稚園受験から始まり、大学受験まで私立大学が跋扈し、行くにはある程度のお金がある家の子しか行けない。競争原理はよいものだと、経済の競争と同じように考えている。教師になりたいという人が年々減っている。学校がクラブ活動をやっていることが当たり前だと思っている。教師採用は相変わらず、新卒が主である。有名な大学を出たら自分はえらい、と勘違いしている人が多い。記憶力がよいことを頭が良い、と単純に思っている人が多い。

 テレビでイオンがスマートモールのモデルモールを作った。レジにならばなくてよい。現金のやりとりがんばくて済む。これで合計数分客は時間を節約できるという。物も言いようだ。実はスマートモール実験で人件費を20%節約できるのだ。これは客の為といいながら会社のための方が大きいのだ。たかが数分。これでレジの仕事が将来なくなることになる。つまり、ちょっと家計の手助けをするのにアルバイトをしようと思っている人の門戸は閉ざされる。
 AIによって閉ざされる仕事がワンサとある。そのワンサは日本が多いという。税理士、公認会計士は要らなくなる。司法書士も行政書士も要らない。弁護士も相当減ることだろうし、その事務職関係も不要になってくるだろう。日本の銀行員も現在リストラ中であるが、これがさらに進むことになる。銀行員のする仕事などない。お金の貸し借りなど機械でよくなる。あと10年、20年で大恐慌でもない限り現実化する。 このような未来に対して日本の教育は頼りがない。仕事を失った人が次の仕事につくときにそれに適応した能力をもっているか。それが問題である。

「文學界」を丹念に読む

2019年11月13日 | 文学 思想
物事というものはその渦中にいるとよくわからないものである。ぼくは1995年あたりからの金融危機が自分の身にも及ぶことはわからなかった。今も何かがどこかに向かって動いているのか、何かが地中の方に掘り下がっていっているのか、明日金融および経済で何が起こるのか、わからない。のちになってわかる。
 戦前も同じようなことだったのだろう。当たり前のように鬼畜米英を言い、だんだんと食べるものがなくなってきて、空襲を受けるようになるまで事態はわからなかった。
 そして政府は倒れず、スーパーインフレを起こし、国民の貯金が紙くず同然となったが政府の借金もそのおかげ紙くず同然となり、政府は生き延びた。
 今、またMMTのような貨幣理論が出てきたが、それは自国通貨を発行する政府は潰れないという理論であり、国民は安全だ、という理論ではない。

 日銀によって金融機関がどんどん追い詰められている。IT技術やITノウハウを丸投げして委託している日本の銀行はこれらの技術をよく知っているキャッシュレスの会社に取って替わられるのかもしれない。通帳の維持費を取るようになれば、もうアカンである。普通貯金の利息が0.001%護送船団方式で中学生でもできる貸し借りの業務(貸すに関しては保証人、担保をみるだけである。余ったお金は国債を買い、利息で儲けていただけのことである)にどっぷり浸かって抜け出せない。

 「通帳維持費を導入するかもしれない」というニュースは何かの予兆なのかもしれない。何かが起ころうとしているのかもしれない。

 ところで、若い1977年とか1986年くらいに生まれた作家たちの三人による鼎談を「文學界」で読んでみた。このくらいの年齢の作家たちはどんな話をするんだろう、と興味があった。が全く面白くなく、好奇心も湧かせず、議論もせず、他愛のないことばかりを三人で言っているだけであった。この若い作家たちはアホなのか。何か言い出せないなにかがあるのか。喧嘩が嫌なのか。

 もうひとつ「伊藤比呂美と町田康」の対談は面白かった。「詩は自分を書く」という詩人伊藤に「それはちがうんじゃないか」と小説家町田は反論していく。するとまた反論するけれど、またそれに対して言う、と流れがあった。町田康の主張の方にぼくは納得いくのだった。伊藤比呂美はボロクソに言われたのだが、怒ることもせず、自分の信念を貫き通し、考えるところは考えるという姿勢だった。これには感心した。
 今回は「文學界」を丹念に読んでいる。そんなことの中で時代が変わっていく、変わっていこうとしていることを感じ取りたかった。どんな風に。よい方へ。後戻りするように? 悪い方に? 文学はどうなっていく? 思想は? と思いながら読んでいる。

NHK大河ドラマ

2019年11月12日 | 映画
  長年の付き合いのようなもので、NHKの大河ドラマ「いだてん」を見ている。このドラマは、話の腰を折るドラマで、噺家の話がでてきてストーリーを中断させる。中断させる方の話も面白かったら2本立てと割り切って見ればよいのだが、ビートたけしとそのまわりは気の毒なくらいドラマの流れを壊している。ビートたけしのせいではなく、脚本担当の宮藤官九郎や制作側のスタッフのせいだが、視聴率が悪いのは「勘九郎の面白味のなさとストーリー中断が頻繁な前半ですっかり白けてしまった。今はもう「喜劇」として見ている。おもしろくないなあ、と思いつつ、休んだこともあったが、まだ見ている、と思ったら、はやあと一か月ほどで終わりである。
 来年は「麒麟がくる」。NHKホームページよると、「脚本は、第29作「太平記」を手がけた池端俊策のオリジナル。大河ドラマとしては初めて智将・明智光秀を主役とし、その謎めいた前半生にも光があてられます。物語は、1540年代、まだ多くの英傑たちが「英傑以前」であった時代から始まり、丹念にそれぞれの誕生を描いていきます。若き明智光秀、織田信長、斎藤道三、今川義元、そして秀吉が、家康が、所狭しと駆け巡る…
「麒麟がくる」―新たな時代の大河ドラマの始まりです。」 とある。大河ドラマの原点に戻る、ということなのだろう。たぶんしっかりと気合を入れて観ることになると思う。明智光秀の登場はいろいろな小説では突然である。信長が「安土桃山城」に建築するときにこだわった思いも描いてほしいと思う。天守閣を金閣寺にするとは、八角形にする意図も知りたいものだ。明智光秀を「まんぷく」の福子の夫、立花萬平を演じた長谷川博巳だ。この俳優、夏目漱石までも演じるようになった。明智光秀役もよく合うような気がする。生真面目で才能ある伝統・格式を重んずる男を演ずるのだろう。

 「麒麟がくる」のキャストをいくら調べても織田信長が出てこない。まだ役を決めかねているのだろうか。
 松永久秀が吉田剛太郎。本木雅弘が斎藤道。染谷将太が織田信長。題字 中塚翠涛。この題字、大河ドラマはいつも良いと思う。

 これまでの大河ドラマでよかったものぼくのベスト5


  1.獅子の時代
  2.炎立つ
  3.独眼竜正宗
  4.花の乱
  5.太平記

  

体重を規制すればどう?

2019年11月11日 | 日記
中国の卓球は強い。日本の三女子ももう少しのところだ。いやいや伊藤美誠は惜しかった。
 さて、大相撲。テレビの永谷園でのコマーシャルと正反対の不愛想な遠藤は昨日、豪栄道に勝った。豪栄道の引きに耐え、前褌を取って逆襲に出た。豪栄道は無理をした体勢で突き落としにでも出たのかもしれない。それが砕けて、足首を傷めた。豪栄道は今日から休場。遠藤はぼくの期待どおりであったので、期待度もまた上がるというものだ。
 やはり大相撲の最後の取り組みに白鵬がいると引き締まる。15日間撮り続けてほしいものだ。昨日は博多の国際センターも満員ではなかった。空席が目立った。ひと頃の人気に陰りがでるはずである。怪我で番付がもうメチャクチャである。
 鶴竜が横綱の責任が果たせず、またもや休場。それに今日は豪栄道。明日からも怪我人がでるんじゃないか、と冷や冷やする。とくに昨日の炎鵬を見ていて、剣翔に首の骨でも折られるんじゃないかと心配した。
 朝乃山の調子は昨日は不戦勝だったのでわからないが、調子がよさそうのは貴景勝、竜電、玉鷲、遠藤、御嶽海のように思える。高安も昨日は強かったが、まだ左肘が不安っぽい。栃ノ心も心配だ。
 大相撲は体重を150キロまでとか130キロまでとか体重規制したらどうだろう。

 大相撲が始まると夕方が楽しくなる。そうそう、昨日のタジマのママさんは画面で言えば左端に居た。眼鏡をかけて地味な黒っぽい洋装であった。九州場所も昔はタジマのママさんくらいしか着物を着た女性は砂かぶり周辺にはいなかったのに、この頃は着物姿の女性が多くなった。
 タジマのママさんはいつも姿勢よく背筋を伸ばして動くことなく座っている。

 大相撲が始まると5時の中休みに母の夕食を作りにいき、(もう温めるとか、みそ汁を作り、温かいお茶を作るくらいでよいように前もって準備しておくのだ)、母宅で5時のニュース後の一番を見て、急いで家に帰り、この時期はもう熱燗を飲むことになる。それで後半戦を楽しむ。
 昨日などは大相撲→世界は今→世界卓球団体戦女子決勝→ドラマ「プルメゾン東京」→ドラマ「いだてん」という順でテレビの前に釘付けであった。 

大相撲変わったら

2019年11月10日 | テレビ
 スポーツこ大会があり、このところ👀に忙しい。剣道大会があった。フィギアがあった。体操と別のフィギアが卓球と重なった。ぼくは卓球を観た。三夜連続で観ている。今夜の女子決勝戦は中国が相手である。伊藤美誠、平野美宇、石川佳純の三人で中国を倒すかも知れない。
 今日から大相撲が始まる。けしからんのは横綱鶴竜だ。今日休場届けをだしたらしい。朝乃山は不戦勝だ。どうして昨日とかその前言わないのか。もう休場ばかりしているのだから、引退がいいんじゃないか、と思う。白鵬も、きっと序盤で負けが混んでくると休場するのだろう。オリンピックまで果たしてもつのだろうか。
 今場所はあの無愛想な受け応える遠藤に期待している。もっと迫力が出てくればと思うが、膝小僧の調子が先場所よりもよく、稽古ができていたら期待大だと思っている。前捌きの上手さには定評がある。先場所の調子から見れば今場所はもっと期待できるというわけだ。
 某作家が「大相撲はブタとブタとの闘いだ。つまらん。突く、ぶちかます、ひく、だけではないか。四つに取り組む相撲などめったにない」。
 そのとおりである。ハワイ勢が入ってきてから変わった。貴乃花も食べて体重を増やさなければならなかった。そして膝を故障した。今や大鵬ほどの150キロ力士などざらにいる。炎鵬が好まれるのも真っ向から相撲の取り口で勝負にいくからだ。相撲はラグビーではないのだ。明月院秀政(千代大龍)、組んで勝負する取り方を覚えろよ。琴勇喜、逸ノ城、その他力士よ。
 栃若時代のような大相撲に戻す努力を相撲協会はしたほうがいいんじゃないか。怪我も多すぎる今の相撲。どう思います? タジマのママさん。
 今場所もスッと座った九州場所の女が毎日見える。



高橋睦郎VS三島由紀夫

2019年11月09日 | 
 源氏物語を代表とする王朝文学は女性が先駆け、女性が最高峰に上った。詩人の高橋睦郎は幽界にいる三島由紀夫に問いかけるのである。「王朝文学を女性から奪いたかったのではないか」と問う。
 三島由紀夫が私設の軍隊「楯の会」を作り、身体を鍛え上げ、自衛隊に訓練志願をしたとか、なんだかやとニュースになり、ぼくは高校生の頃、なにかとそれらのニュースが目に入ってきたのだった。
 三島由紀夫が理想とする世界はどのようなものであるか、という問い対して彼は平安朝と答えたのではなかったか。あるいは評論家が言ったことだったのか記憶は定かではない。
 当時は日本が最高潮の時代だった。一億総中流社会を実現していた。まさに望月の頃であった。三島由紀夫は安穏とした日本社会を心配していた。学生運動の学生たちにシンパシーを感じ、東大へ討論会にも出向き、「君たちがただ天皇陛下万歳と言ってくれればいいのだ」と説いた。
 三島由紀夫の凄まじく不幸な生い立ちがなぜ、天皇に向かうのか、ぼくにはわからない。また平安朝を求めるのもよくわからない。平安時代に生きたこともない三島由紀夫がなぜ、平安朝なのか。
「それなら、老衰して朽ち果てるまで、安んじて荒野に住みつづけていらしゃればよささうですのに、なぜわざわざ荒野を捨て人界へ出て、こともあらうに自衛隊東部方面総監室などといふ、世の注目を集めること請け合ひの場所で楯の会の隊員共共総監面会上、これを縛り上げて露臺からかすれ聲の檄を飛ばし、総監の面前で割腹するなどといふ人騒がせをされたのですか」
「人界と荒野と往来の演技の繰返しに疲れきつた結果といふところかな」(幽明境を超えて・高橋睦郎 文学界12月号)
 強権力をもつ確か梅毒で寝ている祖母は三島が産まれた直後から母と離し、二階の祖母の部屋で育つこととなった。二階の部屋からは授乳させるときだけ、呼び鈴を鳴らして呼ぶのだった。
 ぼくには三島由紀夫は生きていくことができない。荒野と人界の往き来に疲れきった、などというのではない。二階の部屋で死の刻印を受けたのだとぼくは思ってきた。
 ぼくは彼の思想がどうだとか、彼の肉体改造がどうだとか、平安朝がどうだとかどうでもよい。「豊饒の海」はたしかに優れた作品で、それは確かに存在しているのだが、「そんなものは、いつか訪れるこの大宇宙の消滅とともに雲散霧消する」「しかし、いまはともかくある」「いづれ無くなるといふことは現在もないということと同じだ」「ぢや、いまあなたと対している僕も無い?」「それも心ごころ」「その心ごころも無い・・・と」「無いといふことすらない」(同上)
この部分対話は「豊饒の海」の心髄を述べているようであり、禅問答とはいわないが、ぼくにはあまりに文芸的である。



 


 

文学界

2019年11月08日 | 文学 思想
 森田健作千葉県知事がこてんぱんにやられている。台風15号の時、対策室から出て自宅行き、私用車で台風の状況を見てまわった、ということだ。
 危機に陥ると、なんだかだと言い訳して、ついには言い訳も剥ぎ取られていく様はこれまで何度も見てきた。
 森田健作と言えば、ぼくなどは日本大名作「砂の器」で犯人を追う丹波哲郎演じる刑事とコンビを組んだ刑事を演じたのだった。血の着いたシャツを細かく切って中央線の列車の窓から撒いた女(島田陽子)を近くで見ていた新聞記者(穂積隆信)が「花吹雪の女」という題で記事にした。森田健作刑事はその記事を読み、推理し、その布切れを探そうとする。中央線の線路脇を汗かいて、必死で探すのだった。

 ぼくはこの未来に残る名作での熱演で森田健作に好感を持ったのだった。
 彼はいつの間にか政治家なっていた。
 すぐに謝罪するのがよかった。それができなかった。

 さて、話を変えて、今月もまた「文学界」を買った。村上春樹の短編が掲載されている。それに拾い読みをしたなかで、高橋睦郎が幽界の三島由紀夫に話しかけるエッセイが出てくることでくる。これには興味が湧く。他に筆者は柄谷行人の講演録、蓮實重彦の論文がある。ぼくらより少し上の評論家である。今彼らがどんなことを考えているのか知りたかった。この世界、この日本をどう観ているのだろう。例えば柄谷行人にとってマルクスはどう映っているのだろう。現在の資本主義社会をどう観ているのだろう。
 夜な夜な読んでみるか。故吉本隆明は柄谷行人を結構よく批判していた。フランスあたりからのものをもってきて語る柄谷に「自前の思想で語れよ」とか言っていた。吉本を尊敬する中上健次は仲良しの柄谷をよくかばっていた。そんなことを思い出した。中上健次が死んですでに27年になる。柄谷たちが熊野大学を引き継いでいたが、今はどうなっているのだろう。
 
 

少々くたびれた

2019年11月07日 | 日記
 台風で池の水源地が壊滅状態となり、復旧にお金がかかり過ぎるので、池をあきらめた。しかし空っぽの池があるだけでは貧乏臭いというか、放ってある池みたいである。
  蓮を生けるのに買ったとても大きな鉢があるのを思い出して、それを取り出し、この前の台風で掃除した落ち葉を入れて押し込み、そして土を入れた。もう冬になりつつあるのでガーデンシクラメンを15個ほど買い、これを植えたら結構いいのである。赤紫、白、赤のシクラメンはコメリの係員が言うには一か月は花を咲かせるということである。シクラメンは自己主張が控えめであるが、落ち着いた冬の花である。池は橋を境に左側にふたつのゾーン、右側にひとつのゾーンがある。右側のひとつのゾーンにシクラメンを入れた。左側のゾーンにも何か花を置きたい。何がいいのだろうと。木蓮のようにすぐに散ってしまうものではいけない。草花で、長く花を咲かせるもの。何があるのだろう、とまたコメリに行こうと考えている。

 さて、現在72言語まで翻訳を終えた。この翻訳が正しいかどうか、と判定に至るまでに、それなりにプロセスがある。
 まず、英語でのタイトル、短い80文字以内の説明。長い4000字までの説明を作る。このとき Grammarly をインストールしてあるので、ぼくの文に忘れ物があったり、間違いがあると文法的におかしい、というサインが表示される。なるべく翻訳しやすいように箇条書きで完結な説明を目指す。出来上がった英語をグーグルの翻訳にかける。どんな日本語になっているか見るためだ。ぼくがあらかじめ書いた日本語文と同じかほぼ同じ内容を伝える文にできていたらぼくはそれで良しとする。 be stocked が「ストックされる」と訳してくれればいいのだが「貯蔵される」と出てくる。これは手直しである。このようにして英語と日本語の意味を完全にすり合わせていく。完全になればスワヒリ語でもフィンランド語でも同じことだと考える。そうやって72言語やった。ところが不便なことにぼくは日本にいるので、インドのある町でどんな風に映っているのか見ることができないので、本当に翻訳されたものは反映されているのか実はわからない。

 バリ島での仕事を離れてから集中的に仕事というものをしていない。今回は朝の時間、午後の時間とアプリ問題に集中せざるを得ず、知識、経験不足でイライラ感もあり、なんだかくたびれてしまった。
昨日、朝日新聞の一面広告欄に コスモピア という英語教材の出版社があり、3つの広告をしていた。「多聴多読マガジン」「中学英語で表現力を極める」「海外ドラマで英語をモノにする」。なんだかピンときた。
 旺文社やアルクのように古い会社ではない。ホームページを見れば、2002年設立のまだ若い会社だ。しかもホームページにはさまざまな教材がある。ぼくの頭の中にあるようなものがほとんどそろっていると言ってよい。
 早速、メールを出した。メールでやりとりしたい、できればお会いしたい、と。ピンと来るものがあればだいたいが上手くいくものだ。たぶん相性が合うのではないか、と勝手に思っている。このようにしてひとつの仕事を始めるとつながりを求めようと活動を始める。当面、アプリを広告する期間に入る。提携することもひとつの販売戦略である、と思う。

 今日は午後からはコメリでも行って花でも物色するつもりだ。少々くたびれた。

掘ってみないと見えない世界の支配

2019年11月06日 | 文学 思想
 iOS とAndroid のスマートフォンやタブレットの製品製造は、彼らが工場うぃもって製造するわけではない。かれらは従来の二次産業である製造業ではないことはすでに多くの人が知っていることだ。アップル(iOS)は自分の工場で製品を作るのではない。部品を発注して、それを集めて組み立てることもアップルはやらない。別の海外の会社がやる。工場を持たない新しいビジネスモデルを作ったわけだ。この話は別として、例えば Google や Apple を運営していくときに、商品製造ではなく、Google(Android)のパソコンの中身のことを少し考える機会を得た。
 Google は翻訳ソフトを作り、地図を作り、アプリを作るプログラムツールもすべて無料で提供している。20年前は単なる検索会社で、しかもヤフーのようにホームページをアップする審査が厳しいわけではなく、どんなものでも無料で検索エンジンを提供していった。このような会社の主力スタッフは幾層かに分かれているように思える。
 1.大構想者の層
 2.大から小までアイデアを出す層
 3.プログラマーの層
 4.パソコンに向かい打ち込んでいく層
 5.規律に従って客をサポートする層
 6.他事務的な層

 2.3は同人物ということも考えられるが、日々、なんらかの知恵が出され、よいとなったらそれが取り入れられ、プログラマーが動き、そこでもアイデアが生み出される。やっている本人は世界を支配していることに気がついていないのかもしれない。ぼくらは「更新」という情報を受ける。世界での支配がはっきりしているから、こちとらはそれに従うしかなく、下手な日本語翻訳の解説文にも文句も言えず、ああでもない、こうでもないと探ってやっていくしかない。その支配を受けないというのが中国である。14億人の人口を抱えておれば、Android や iOS に対抗するものはできる。さらに5Gがあれば、超高速、大容量で通信ができ、スマートフォンとタブレットも5G仕様となる。中国は三番目のプラットフォーマーとして、進出しようとしている。中国市場に入りたい人々は中国版を使わざるを得なくなる。

 ぼくはこれまでアップルやグーグルのやっていることが、つまりは世界を二分した支配とは考えてもいなかった。単なるITの世界でうまくやって、リードしているものとくらいしか思ってこなかった。ところがAndroid を使って便利なアプリを作ってみようとすると、そこには膨大に、練りに練られた戦略が見えてくる。そしてすべてはその戦略の中に入り込んでやるしかなく、それは便利でもあるが冷たくもあり、ごそっとお金を吸い上げるシステムになっている。このまま進んでいくと、この世界もただ言われたことをこなすだけのプログラマーはAIに変わり、アイデアを出す者だけがAIを使っていくのかもしれない。

 GAFA になぜマイクロソフトがついていないのか不思議だが、マイクロソフトも含めて、これらの存在は今後物議を醸し出すことだろう。 無駄と便利が入り混じったパソコン、スマホ、タブレットの世界。毎日格闘していて、便利さも巨大な悪のようにも思えてくる。コンピュータはシンプルに便利なものではなかったか。今は超複雑になっている。人間がいろいろなトラブルを起こし、ハッキングし、違法行為をやり、となるから複雑化しているのである。

荒井由実

2019年11月05日 | 音楽
松任谷由実が荒井由実だった頃の初めてのアルバムなのか、二作めなのか知らないが、この頃車の運転をする時に聴いている。おおよそ40年以上前のアルバムである。「ひこうき曇」からアルバムは始まる。音はブラスは入らず、シンプルで透明感がある。とても洗練されていて、とても40年以上も前の曲だとは思えない。現在の歌も負けるのではないかと思う。
 中島みゆきの場合、片足がフォークに浸かっていたのでか、古臭さのあるものがある。今も十分に優れたものがあるものの、この点は荒井由実とは違う。
 毎日驚きながら聴いている。まだこの頃の荒井由実の声は線が細く、ダミ声ではなかった。
 荒井由実の曲を一青窈あたりが全曲カバーしてほしいと思う。松任谷由実の声は限界がきているように思える。作曲家としてはまだまだいけると思う。

 ぼくは昭和の名作品として薬師丸ひろ子が歌う「Wの悲劇」を挙げる。松任谷由実が提供している。松任谷由実が他の歌手に提供した歌はどれも素晴らしい。石川ひとみに「まちぶせ」、松田聖子に「赤いスイトピー」。

 この天才のステージの様子がときたま映像で放送される。最近でな去年の紅白歌合戦で見たのが最後である。若い頃はほとんどテレビに出てこなかったから、ようやくにしてテレビで見たときは下手で声の悪いオネエサンだった。

 しかし松任谷由実は中島みゆきの「恋文」や「川風」のような曲は作れないのである。どちらもオリジナリティが高く、個性が違うといえばそれまでなのだが。

 前線で勝負しているのは桑田佳祐である。こういう昭和から続いているかシンガーソングライターではなく、最近知り、歌のうまさにも作詞、作曲にも驚いた
スーパーフライという女性シンガーソングライターである。多くの人はすでに知っていると思う。毎日聞く朝ドラ「スカーレット」の主題歌「フレア」を歌っている。この前NHKの舞台で観てびっくりした。歌がうまく、声は出て、言うことなしだ。こういう人が出てくるものだ。
 松任谷由実のように、中島みゆきのように育っていってもらいたいものだ。

大学受験英語

2019年11月04日 | 社会・経済・政治
 文部科学省が英語の民間試験の登用を5年延期した。英語の苦手な日本列島人はまだまだ英語苦手が続くことになる。日本人は外国語がなかなかできない。世界でも最も難しいと思われる日本語を操るのだから、もうこれでええわい、と思っているのかもしれない。
 たぶん、この5年の延期がその後大きなものだったという日が来るとぼくは思っている。政府も、日本列島人の英語力、特にリスニングとスピーキング力を危惧して、重い腰を上げたのだった。それで民間試験を使うと宣言した。
 ぼくらは普通、2社か3社かの民間試験で、その中から選べばよいのだろうと思っていた。英検なら、新宮が会場で、尾鷲から1時間前20分ほどである。英検側も、尾鷲でも熊野でも高等学校があるところでは試験を受けられるようにすることだろう。英検以外にトッフルがあるが他に4社が名乗りをあげ、その民間会社に政治家がそれぞれ付いていると言う。これまで民間試験などしたこともなかったベネッセなど入っている。当然政治家もくっついている。なぜなら受験料は利権だからだ。6社もあれば受験生は何を選べばよいのかわからなくなる。受験料も、試験会場もてんでバラバラである。不公平感が増長された。このような具合で、萩生田大臣の失言が5年の延期となった。
 日本列島人は英語ができないとにっちもさっちもいかなくなる。英語圏の支配を受けずにおられるのならそれでもよい。英語を利用せずして、もはや日本は多くのことができない。今回Google の深いところを触ってみてそう思った。
 世界共通語になった英語を甘く考えてはいけない。仕事ができなくなってくる。
 人材派遣会社に棲みついた竹中平蔵のように、各民間試験会社に棲みつく政治家が出てくることで、日本はさらに遅れる。日本語もできないのに、英語とは、などと言っている悠長さはないのだ。言語など、2つや3つできるのが普通のことになりつつあるのだ。

キャッシュレス化

2019年11月03日 | 社会・経済・政治
 いつも行くコンビニで訊いた。
「キャッシュレスで払う人は10人に何人ぐらい?」
「ほとんどですよ」
「ほんとに?」
「やっぱ還元策は効果があるんだなあ」

消費税アップによる消費の落ち込みを防ぐのに政府がとった策だが、これには裏がある。小さな店屋がこれまで現金商売をしていて、その現金で仕入れしていたものが、キャッシュレスになると売り上げが振り込まれるのは1か月とか2か月先となる。運転資金が必要になるだろう。ない店は客に国からの還元ポイントをサービスできなくなる。また来年6月を過ぎると、キャッシュレスのpaypay とかカード会社は手数料を店からとり始める。消費者が買い物する度に、1.5% とか3%とか店側は払うのである。100億円払うと言って大勧誘しても結局6月になればpaypay側はなんにもしなくても、手数料が入ってくる。ぼくはこれは不労所得だと考えている。
 またこのキャッシュレス化は不公平というべきものを生み出す。例えばドコモで携帯電話を毎月使用するとポイントがDカードに還元される。このカードの発行は破産した人やブラックリストに載っている人には発行されない。ポイントは期限付きで、携帯の部品を買うときに使うとか、買い替え時に使えるのだが、そんなチャンスはめったになく、期限が来ると消えてしまう。だから多くの人はそのポイントカードで別の物を期限内に買うのである。ポイントカードを持てる人と持てない人がいるというわけだ。そういう差別化をしてまでキャッシュレス化が必要なのか。
 政府は何のためにキャッシュレス化を進めるのかきちんと国民に説明した方がよいと思う。
 セイムスというドラッグストアでも同じ質問をした。やはりキャッシュレスが増えているという。小さな店屋は来年6月以降どうするのだろう。
 サイトをもつぼくのジムショにさえ、電話セールスがきた。
「6月以降は手数料はどれだけとるの?」
「まだはっきり決まってないのですが、業界でも一番安くと思ってます」
 とわかい声の営業部マンは言う。
「最低ってどのくらい?」
「1.5%ぐらいですかね」
「ウチのサイトはgoogle play store のヒトがみるか、googl play store にいくためのもので、小売りしてませんので」
というと、すぐ若い営業マンは力なく電話を終えたのだった。
 キャッシュレス化で国はどうなり、社会はどうなるのか。ぼくらは知る必要がある。

世界の都市、町

2019年11月02日 | 旅行
 テレビ番組内で「モナコ」についてちょっと紹介したコーナーがあった。ここに住む五人の80%は移民だそうな。6000万円の貯金証明を見せる必要がある。治安がよくお金持ちだけが暮らす。ウエイターをやっている隣のフランスから毎日国境を越えて自転車で働きに来る男性によれば、賃金はチップも含めてフランスの3倍になるという。
 モナコ公国。立憲君主制国家。アルベール2世が現在のモナコ大公。高級カジノ。ヨットハーバー、モナコグランプリが有名である。お金持ちに有名なのは所得税がないことだ。タックスヘーブンの都市国家としてもよく知られている。テレビではファッショナブルな女性や男性を紹介していた。世界でも有数の富裕国である。腕時計が1200万円だとか、身につけているもので、何百万とか、なんと人間は無駄なことをしているのかとは思う。

 昆明。中国雲南省の都市。この昆明は年中春だと聞いたことがある。快適な気温が毎日続く。昆明から尾鷲に越してきた人の話だ。話から想像だけしていたのだが、もっと小さな都市だと思っていたら巨大な都市であった。これもテレビで紹介していた。東北地方は寒いので、昆明への移住希望者が多いという。
 昆明の池のほとりには柳が並んでいた。ぼくは中島みゆきの「川風」はまさにこんな風なところで、歌えばとってもよい歌だろうな、などと思ったのだった。ここは一度行ってみたい。高倉健の「単騎千里を走る」は昆明が基地となって撮影がされたと聞いたことがある。暑くもなく寒くもなく、1891メートルの高原にある。ユリカモメが池に居て餌をやる人々がいた。ロシアに飛び立っていくのを見送る人たちもいた。

 世界には多くの都市があり、町がある。以下は行ったことがある町である。
 バンクーバーからフェリーで30分。ビクトリアという花の公園と花でいっぱいの島があり、カナダの人は老後、ここに住みたい人が多いという。この島の美しさには堪能した思い出がある。
 シアトルからも近い。シアトルの中にマーサーアイランドという島がある。中州である。周囲の湖は年中穏やかであるからレイクサイドが人気の不動産だ。この町も安全で上品でよい町だった。モナコのような雰囲気はまるでない。アメリカ人の良き良心がある島だと思う。人々は寛容で優しく、理知的である。

 バリ島は相変わらずまた行きたくなる島だ。バリ島には伝統音楽、舞踊、絵画、織物、銀細工、木彫り、石彫がある。そのようなものを大事にしている。ホテルリゾート区域と自分たちが生きる地域とは一線を画している。その徹底さにも人々は惹かれる。神々にお供えをし、物静かに生きているように見える。

 リスボン。ぼくは二度行った。リスボンの街はアルファーマ地区の路地を歩き、ファドを聞くのだ。ワインを飲みながらいわしを食べ、亀の手を食べるのだ。

 いろいろな都市や町のことを想っていると、もう時間に限界がきつつあることに気づく。かつてどこにでもいける、どこにでもいく、と、時間は無限にある、と思っていたのが、有限性にふと気づく。

超短縮と縮小

2019年11月01日 | 社会・経済・政治
池の水が出なくなったので、今日業者さんに取水地まで検分に行ってもらった。その報告は無惨なものだった。台風で石がまくれこんできて、バルブは破壊、ホースも流され、取水のパイプも壊れ、修復するには大きな石をどかさなければならない。3軒の家でこれを維持していたのだが、今はウチだけになって、うーん、と考えてしまう。
「大工事やんな」
 と鉄工所の業者さんは絵を描いて説明してくれた。
「ここ、ここ、ここ、これこの石・・・」とスマホでも実際の写真を見せてくれる。
「ちょっと考えさせてください」
 
 これは宿題のようなもの。日をおいて考えることにした。なんだかだとあるものだ。

 さて、これは面白く、興味深いことなので、報告しておきたい。ぼくは語学プレイヤーアプリを開発した。そしてそれが承認された。
 次にぼくは145か国で配布されるものの、日本語がわかない人には理解できないかもしれない。そこで、グーグルでは翻訳サービスを行っている。世界中のほとんどの言語を翻訳してくれるわけである。これはAIではない。人間による翻訳である。翻訳AIになるとまだまだである。人間による翻訳は一文字0.07ドルである。
 例えば、英語、中国語の繫体字(台湾、香港など)、韓国語、フランス語、ヴェトナム語、スペイン語、ポルトガル語、ロシア語の8つの言語翻訳を依頼すると、2日以内でできて、合計 227ドルだとすぐに出てくる。こちらが支配しているのは日本語だけで、グーグルはその他の言語の支配権を持っているということだ。

 現在、アップルとマイクロソフトがOSを支配している。スマートフォンとタブレットはグーグルグループのAndroid、アップルの iOS が支配している。中国もグーグルを使っていたが、使用できなくなっている。中国には多くの人口があるから独自のフォームを作るのだろう。すると世界は三つ巴となる。
 それにしても タイトルと説明を翻訳してくれて8言語で227ドルというのは安いと思う。きっとAIがやったあと人間がチェックして人間らしい言葉にしているように思う。世界に展開していくためにはこの道を歩まなくてはならない。
 日本の教材関係のアプリはこれを目指していない。みな日本の中のみのアプリである。アプリに教材をくっつけているからそうなってしまうのだ。
 ぼくのは教材を外してある。各国にある教材を音声で取り込んでそれを使うという方法である。

 22年前にはこういうことはできなかった。ITの分野では超短縮化されてグローバルとなっている。ところがこの22年で、財産のあり方が相当変化している。日本の地方ではバブル崩壊以降、地震騒ぎ以降、不動産価格が減り続けている。資産としては10分の1。ある場所では100分の1のところもある。「もらってくれ」というケースもある。資産価値が極端に減ったのである。ところが知的財産権はある価値が決まれば、これは安定している。作詞や作曲にはどれほどの著作権が入ってくることだろう。こういうものをもつ人もいるのだ。

 22年間の中を生きてきたはずなのに、何かの折に振り返って客観視してみないと推移はわかりにくい。なんとなく世の中というのは変化しているのである。渦中にいるとわからない、というのはそうなのかもしれない。木を見て森を見ず、というのもそうなのだろう。
 すると過去のある時期、渦中にいたときの人々の取った言説や行動を非難できるだろうか、と問いに向き合うことになる。はて。