南の島の土着民風自由人

自分の生活、計画し実行してきましたが、病気や人間関係など思いがけない障害に遭遇しました。

(^_-)-☆お世話になった

2012-10-06 22:07:00 | 人間

 1360 雨季になりそうな黒い雲が現れるようになってきた。時折、昼間でも小雨がぱらつくようになった。

 

今朝、会社概要などが更新された。完全にトップ交代を公表したことになる。発表責任者もファンドからの人間だ。悲哀を感じる。

何故、ジャスダックの上場を止めてしまって、ファンドと手を結ぶことにしたのか、資金調達の早道か安全か、狙いは何だったんだろう。結局、それが、命取りになってしまった。牛耳られてしまった。腹心だと思っていた部下たちも長いものに巻かれるしかなかった。そうしなければ、自分が路頭に迷うのだから。

従業員とその家族、関連下請けを含めれば、恐らく一万人以上の生活に責任があると心配してきた。それが、社外に発している方針とは別の経営の基本方針だと、常日頃言ってきた。それが、私の誇りだと言ってきた、その人が、こんなことになってしまったのだから、残念でならない。

 

1981年倒産した会社の後を引き継ぎ、新日鉄化学などの支援を受けて、創業社長になった。倒産した会社の組合とかなり厳しいきわどい交渉をし、何とか、障害を無くして専業に集中できるようにした。

押出部門はもともと地道な利益を上げていたし、その部門の直属の部下たちは、私と同世代の人達で、皆さん、優秀だった。倒産した会社の時からその人たちを知っていた。大学の後輩もいた。その他、国立大学の工学部を卒業した連中が多かった。

私が独立したのが、1973年ごろ、静岡へ本社を移したのが1982年でした。その直後から、手違いがあって、間接的な取引が始まった。断面が小さい、塩ビ以外の製品の孫請けになった。30年以上前からの手伝いです。V0のPP丸棒3φ、5φで長さが50mmから2000mmまで、数ミリ刻みの種類があった。耐熱難燃N6黒のスパイラルチューブ、5φで肉厚は0.5mmでした。それも、長さが50mmから1000mmまであって、1mm刻みの種類があった・長さの公差が±2mmだから、1mm刻みの規格は変じゃないのと言っても、いうことを聞かない。

その他にも縦割れチューブやのノ字チューブでも原料がN6やPCでこなした。その成型技術を持っていなかったというより、自社に挑戦する迫力がある人材がいなかったので、私のことは、直ぐに、その創業社長に伝わった。それ以降は、何かと、お呼びがかかった、何とか工業会などは、私は出席したくなかったが、引っ張り出された。

 

ジャボンという木です。紙になります。

 

構想道路わきの枯れ草が燃えあがっています。多分、誰かがわざと火を付けたのだと思う。高速道路の両脇には焼いた跡が連続している。

反乱 クーデター 出張中

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