南の島の土着民風自由人

自分の生活、計画し実行してきましたが、病気や人間関係など思いがけない障害に遭遇しました。

(^_-)-☆犠牲祭

2012-10-27 22:22:41 | 矛盾

 1381 イスラムのお祝の日 イドゥル アドゥハ、私が一番嫌いな日です。何でこんな残酷な行事をあっけらかんとやるのでしょうか。皆さん、着飾って、マスジッドへ行き、その周りに、首を切って食べるための牛やヤギが繋がれている。何やかやと、お祈りした後、普通に皆の前で首を切ってそれらの動物を殺し、切り開き、皆さんに振舞う。こういう事をイスラムの初期には人間、捕虜を食べはしなかっただろうが、殺して、盛大に騒いだのでしょう。人の代わりに今は動物で代用しているのでしょう。どう子供たちに教えているか知らないが、残酷さをあっけらかんと見ていられる、あるいは、自分がその役目をすることを名誉と思うくらいに、当然の行為だという感覚を持たせる。戦闘的な意識、攻撃的なイスラムだと思うが。それを自分たちは何とも思わない世界を作り上げている。アラーの神がそうしなさいと言ったと伝えた将軍さまの巧みなところだと思うが、ジハードの考え方は、こういう行事にも表れていると思う。

 嫌な、行事である。

 

 日本の元旦の朝のように閑散とした通り、ほとんどの人はマスジッドに出かけてしまっていて、町は閑散としている。マスジッドの前にはお祈りの清掃をした男女が大集合、一部の道を塞いでお祈りの列が出来ている。

 前日の夜から明け方にかけて、大勢の人が大騒ぎをして、ゴミはそのまま散乱している、その傍に大勢な人が集まってお祈りをしようとしている。犠牲祭も気に食わないが、このゴミの風景も気に食わない。宗教以前に人間としてもモラルっていうものがあるだろう。ゴムぐらい片づけてからお祈りしたら、と思うし、宣教師や学校の先生は宗教について語る前に、「皆さん、ゴミを捨てないようにしましょう、ゴミが捨てられていたら、他人の物だから。そのままにしておくのではなく、拾って、決まった場所に捨てましょう。神様はきれい好きだったのですよ」と、お説教したらいいと思う。このゴミの山、インドネシア中のゴミの山を神様はどういう顔をして眺めているのでしょうか。動物の首を跳ねて歓声を上げ、その肉に寄って、たかって、われ先にと駆け寄る前に、身の回りのゴミを拾ったらどう。

 預言者と言われる神様と民衆の間の仲介者の誰一人として、ゴミの持ち帰り運動を提唱した人はいません。神はゴミについて無関心だったのでしょう。その当時がゴミが気になるほど無かったのでしょうか。そうでなくても、臭いもの、汚いものは人間の責任で無くしましょう、くらいのことは、言い残しておいてほしかった。コーランやバイブルや仏教経典に書いてほしかった。

 イスラム国家はどこでもそうですが、インドネシアでもイスラム教に対する批判はご法度です。しかし、人間の歴史も短いが、宗教の歴史などは遥かに短い、だから、宗教以前にもっと基本的な人間としても共通なモラルがあるはずだ。

 嫌い 平気 不感

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