2543 浅間神社と富士川の寺からの富士山。眼下右に静高、左に静大跡地公園、その左向こうに富士山、右上に谷津山、その向こうに日本平、真ん中、奥は清水の町、清水港。
そして、寺からは、眼下に富士川、右下に東海道旧国一の橋、右上に富士市の町その向こうは、愛鷹山、左には霊峰富士、ここからなら、稜線もすそのまで、見える。いずれも、私の故郷です。
9時ごろ出発、まず、浅間神社へ、駐車場は満車、ざっと見て30台以上の待ち、時間の無駄ということで、静大の跡地の脇に路上駐車、ここには、たくさんの車が両側に駐車しているので、大丈夫らしい。ここから石鳥居まで400mくらい歩いた。孫たちは振袖を着て行ったが、着物姿の人には一人も会わなかった。百段を上って、途中の展望スペースまでゆく。中学から高校にかけての思い出の地である。ほとんど6年間、体力作りで、頻繁に百段に来ていた。毎回10往復はしていた。時には、賤機山(しずはたやま)にずっと登って行って、地獄谷といわれるところを、逆落とし、臨済寺から学校に帰ったものだった。
昔は百段を上った広場にも露店が出ていて、ガマの油売りがいた。刀を持って、腕に傷をつけ、ガマの油を塗ると、たちどころに、傷が消えた。多くの人が、その怪しげな油を買っていた。その場所はたくさんの木が植えられ、広場ではなくなっている。
富春院というお寺が道沿いにある。中学一年の担任、鈴木宗元先生はここの住職だった。何度か遊びに行っていたが、奥さんが亡くなり、クラス代表として参列したことがあった。その時のお祈り?が、すごかった。坊さんが両側に10人ほど並び、色々な楽器を持って、チンジャンボンとやっていたのにはびっくりさせられた。
静大跡を横断し、車に戻ったが、高校時代と大学の夏休みにはこの構内の静大卓球部の練習場に時々、お邪魔して他流試合をしていた。
富士川町のお墓に行く、一年ぶりだ。私が、父親が亡くなった時、2000何年かに作った墓だ。今は両親が眠っている。父81歳、母96歳と刻んである。ここからは、富士山と愛鷹(あしたか)山、足元には富士川、ウサギは追わなかったが、小鮒は釣ったし、追い掛けた。私が生まれた土地だ。小学校の夏休みには、従兄弟の家に泊まり、セミやカブトムシを捕り、富士川で泳いだ。ミカンは手がまっ黄色になるほど、食べまくった。東京から来た従姉女学校生の正子さんの美しさにドキドキし、話ができなかった。少年時代の淡い思い出がある。
富士川楽座東名のサービスエリアだが、一般道からも入ることができる。寺から一分もかからない、混雑ぶりはすごい、駐車スペースがなかなか見つからないほど、ここで、昼食、私は桜エビの唐揚げ付きのうどんを注文した。桜エビは由比と決まっていて、生シラスとともに、私が子供のころからのご馳走の一つだった。
この地のあと何回、子供や孫や妻と一緒に、行くことでしょうか。そんな、思い入れが次第に大きくなってくる。
駿河湾の大海原と右に伊豆半島、前方に用宗、焼津方面を見ながら、国一バイパスを通って、家に戻った。約5時間の初詣旅でした。
作った酒の絞り粕で、甘酒を作りちょっと飲んで酔っ払ってしまった。
懐かしい 桜エビ 故郷