2565 Pindahan引っ越した。古巣のグラハタマンGraha tamanにいる。会社の運転手と従業員3人。計4人で手伝ってくれた。軽トラック一台では無理で,2回、往復してもらった。8時から12時くらいで全ては終わった。その後、皆さんで昼食、近所のインドネシアセスとランで、イカン グラメなどの料理を振る舞った。皆さん、普段食べられない料理なので、写真を撮りまくっていた。私も、同じ、写真を撮った。
何という名前の料理か分かりますか。魚の料理が主体ですね。グラメという淡水魚です。めちゃくりゃ汚い水の中で育ちます。バカール(焼き)とゴレン(唐揚げ)一皿ずつと、ソプ グラメ(スープ)2皿、それと、カンクン(野菜の一種空芯菜)、ウダン プダス(エビの辛煮)それに、ナシ(ごはん)ですね。5人で、ちょうどの量です。45万Rp(約4千円)、インドネシア人にとっては、ご馳走です。
外は、大雨で、吹き込んできていた。ゴルフをやっている連中は、たたられているなと思う。
グラハタマンは、塀に囲まれた長屋である。セキュリティーが常時いて、出入りをチェックしている。私がここに最初に入ったのは1997年の2月ごろだったと思う。インドネシアで仕事を始めた時には、クラウンコートに入ったが、雨季には、ジメジメした部屋で、チチャックが繁殖していたし、蚊の根性のあるやつは、5階の部屋まで上がってきた。そして、当時、新築だったグラハタマンに引っ越した。クラウンコートには半年しかいなかった。また、その時から、ドライバーを使わなくなった。ここに、入って、新築ということと、日本人の勧誘員の熱心な営業もあって、50人以上の日本人がここに住むようになり、日本食レストランンもできたし、カラオケまでできた。しかし、ちょっと、どこからも遠いことと、周りの雰囲気が、寂しかったからでしょうか、出る人の方が入る人より多くなり、また、いつの間にか入る人はいなくなり、2005年ころには、私一人になってしまった。
そして、最終的に出たのは、パニック障害になって、ここから、あちこちの病院を歩き回った、すぐ前のルーサォット アニッサに行ったには、その1年前のちょうど、日韓ワールドカップが開催中のころだった。初めての症状だったが、そのころは、全く、病気とは思っていないで、単なる疲れだと思っていた。そして、とんでもないことになり、日本に逃げ帰った。そして、ここからも出た。
ここの人、そのころのことを覚えていて、あの時は大変でしたね。今はどうなの?と言われた。今日、グラハタマンの住人になった。ルマーアバン駅の手前、500mである。
引っ越し 古巣 アンダーテーブル