エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

10万石の気品漂う、忍城跡

2010年09月20日 | 日記
徳川家康の関東入部後は、家康の四男の松平忠吉が忍城に配置され、以後、忍藩10万石の政庁となった。



寛永年間に阿部氏が入ると城の拡張整備が行われ、往事の縄張りは1702年(元禄15年)頃に完成したと考えられている。



1590年(天正18年)の小田原征伐の際、城主・成田氏長は小田原城にて篭城。家臣と農民ら3,000の兵が忍城に立てこもった。
豊臣方の忍城攻めの総大将は石田三成。
三成は、本陣を忍城を一望する近くの丸墓山古墳(埼玉古墳群)に置き、近くを流れる利根川を利用した水攻めを行うことを決定し、総延長28キロメートルに及ぶ石田堤を建設した。



しかし忍城はついに落城せず、結局は小田原城が先に落城したことによる開城となり、城側は大いに面目を施すことになった。
このことが、忍の浮き城という別名の由来となった。



江戸時代には忍藩の藩庁が置かれた。
別名は「忍の浮き城」「亀城」



埼玉県の旧跡に指定されている。
関東七名城の一つ。
忍城水攻めは日本三大水攻めの一つに数えられる。



忍城の城下町は、中山道の裏街道宿場町としての機能や、付近を流れる利根川の水運を利用した物流路としての機能を兼ね備えて繁栄する。また江戸時代後期からは、足袋の産地として名をはせるようになるのである。



忍城の鐘である。
この鐘楼から、時を告げていたのであろうか?

あるいは、総登城を告げていたのであろう。

この一帯は古墳群もあり、古代蓮の里もある。
何回訪ねても新しい発見がある街である。





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