エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

那須高原の赤蜻蛉

2012年08月26日 | ポエム
那須野ヶ原はいまだ暑い日々が続いているのであろうか?
赤蜻蛉も群舞するほどで無かった。



旧御用邸の敷地内に「平成の森」と称する施設が昨年完成した。
所謂、那須の自然を残そうとする試みの一つである。
ビオトープの試みである。



施設も、木の匂いが充満しており、清潔である。
例年だと森の中は涼しい風が流れ、汗を優しく引かせてくれるのだろうに、今年は汗を吹き出させてくれる。



湿度の高い森である。



雲の峰は、あくまで鋭い。







「山はまだ身じろぎもせず赤蜻蛉」







蜻蛉は、那須の高い場所で飛翔していた。
平成の森では、ギンヤンマが飛んでいたけれど、カメラでは追い切れなかった。

一瞬も留まる事無く、見る者を翻弄しているのである。
森の王者ででもあるかのように。







「視界切り稜線も切る赤とんぼ」







だがしかし、蜻蛉だけだと夏の季語である。
あるけれど、この蜻蛉に赤を足し算すると忽ち秋の季語となる。

その優柔な理解が、俳人のしたたかさである。



      荒 野人

芭蕉と殺生石

2012年08月25日 | ポエム
松尾芭蕉は「奥の細道」の道すがら那須高原の殺生石を訪ねている。
日光から黒羽、那須野へと足をのばし、那須野から蘆野の柳(西行の遊行柳)を経て白河の関へと至っている。







 野を横に馬引き向けよほととぎす
              芭 蕉






殺生石の場所で詠んだ俳句である。



ポカリと浮かんだ雲。
稜線を際立たせ、かつ鮮やかな山を網膜に映し出すのである。



ススキも風情が宜しいではないか。
高原の佇(たたず)まいである。

殺生石の手前に、いま千体地蔵が安置され風雨に淘汰され時間を刻んでいる。
以前は無かったものである。

無かったけれど、硫黄の匂いが満ちるこの場所には誰ともなく石を積んでいた。
その延長なのであろう。








「石を積む誰かと問えり秋の風」


「ススキの穂地蔵の思い風に揺れ」







こうして石を積む。
その延長として地蔵が置かれていったのに違いない。



石を積むのは、供養であり、自己の願望の発露ではある。







「祈りたる地蔵の肩に花ススキ」







新旧おり交ぜて、千体になろうとしている。
厳密に数える必要もない。
その心の在りどころこそが、この空間を祈りの場にしていくのであろう。



時間の風雨は人の心を徹底的に洗ってくれる。
そこに何かを托す。
自然の脅威に畏怖する。

人が作りだした祈りの場は、やがて森羅万象が差配する空間へと転化するのである。
悠久の時間に人は決して遊べない。
学ぶのである。



      荒 野人

雲海と朝風呂と

2012年08月24日 | ポエム
朝焼けの雲海を眺めながら、朝風呂に入るのである。
極楽!極楽!



だがしかし標高千メートルを超える高原だというのに・・・ましてや那須高原で一番高い場所にある露天風呂であるのに、暑い。



芒が穂を開きつつある那須高原である。







「日輪の四方照らしおる雲の峰」


「朝焼けの雲海西のほの赤く」







芒を愛で、雲海を見下ろしつつ露天風呂に入った。
朝風呂は、朝飯を美味くさせる。

まして、バイキングだとしたら「食い過ぎて」しまうのである。



朝飯をすませ、山を降り、そして殺生石に出かけた。







「伝説は灼けたる石よ雲流る」







色々な伝説が残されている那須高原である。


       荒 野人

雲の上

2012年08月23日 | ポエム
あまりにも暑い。
その熱さは、かつて経験した温度とは異質である。

身体が悲鳴を上げている。
高原に行けば涼しいだろう・・・とばかり「那須高原」に出かけたのであった。
知り合いからは、余りの熱さに「お出かけは自粛!」とのメールが届いたけれど、従弟と予め日程かしていたので強行したのであった。



とりわけ茶臼岳は、雲海を下に見る標高千メートルを越える場所である。
涼しいに違いないのであろうと思ったけれど、甘かった。
涼しくないのである。

だがしかし、気分は初秋である。







「高原の大気の流れ涼新た」


「赤蜻蛉空の蒼さは変えられず」







晩夏と初秋を詠んでみた。
那須高原における吟詠である。



     荒 野人

蝉時雨

2012年08月21日 | ポエム
時雨るるほどの蝉の声である。

芭蕉翁は、

 閑さや岩にしみ入蝉の声

と蝉時雨を詠んだ。
閑けさに蝉時雨を対比したのである。



だがしかし、ぼくは平凡な感性しか持ち合わせていないからだろうか、煩いとしか感じない。
悲しい!

それにしても万緑は黒い。
おどろおどろしている。







「かくかくと蝉の一生時雨れたる」


「蝉時雨ここぞとばかりの七日間」







昨日、落ち蝉を見た。
もう秋なのである。

前記の芭蕉翁の句は・・・。
「岩に巌を重て山とし、松栢年旧土石老て苔滑に、岩上の院々扉を閉て物の音きこえず。岸をめぐり岩を這て仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ。」

の文に続くのである。



綺麗な・・・綺麗としか言いようのない夕景であった。
こうした秋夕焼けを読みたいものである。



夕焼け雲は、何を語るのか!
じっくりと対話しなければ、イマージュは湧いてこない。
だから、俳句は難しいのである。




    荒 野人