エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

蕊降る・・・詩人の恋

2014年04月20日 | ポエム
春は、恋の季節だというのか!
蓋し、当然である。

春の深まりは、舗道を見るだけで分かる。
赤く染まるのである。



「蕊降る候」である。
妖しく胸ときめかす赤である。



シューマン詩人の恋.wmv







シューマンの歌曲は、大好きである。
詩人の恋も良い。
ミルテと薔薇の花も良い。
リーダークライスも良い。

押さえた音調で、だがしかし高らかに歌い上げる歌曲が好きなのである。
イタリア歌曲のように、突き抜けない。
内面に沈殿するのである。

しっとりと歌い上げる、バリトンが良い。

いま、シューマンを聴きながら、沈殿している。
外は雨が降っている。
雨音とピアノと良くコントロールされたバリトンが同時に聞こえる。



昼、タンポポが黄色で蕊の赤さを中和するかのようだった。







「蕊降った日の舗道ゆくネコ静か」







そういえば、一昨日満月だった。
けれど、朧だった。
朧月夜・・・美しいオマージュだ。

どうして,日本語はこんなに美しいオマージュを紡げるのか。
その答えは、ある。

あるけれど、今は語らない。



蕊の降る舗道をネコが過った。
抜き足である。

何を狙うでも無く、そっと歩いていった。
滝沢修が迫真の演技をすると、こうした気配を生み出したものだった。



      荒 野人

平林寺半僧坊大祭

2014年04月19日 | ポエム
17日は、新座市にある平林寺の半僧坊大祭であった。
句会のメンバーに,山つつじ句会の有志による「吟行」が行われた。

あくまでもお遊びで行きましょう!
といった趣旨で行われたのであった。
あくまでも気楽に、従って句会なども行わないのだ!

それが趣旨であった。



大祭のこの日、主宰が朝から参加された。
主宰から、吟行を学ぶ絶好の機会である。

平林寺前の道路は、さながらホコ天。
この屋台の並びは、延々と続き平林寺の山門から新座市役所まで続く。

まるで、日本中の「テキヤさん」が集まったようである。



平林寺には、松平家の墓所がある。
古刹である。



平林寺は紅葉の名所である。



おそらく、京都に負けない赤である。



この子は、もともとこの色。
新緑に映える色である。







「転読の大音声の春深む」







メルクマールは、転読。
大般若経600巻の転読である。

この寺院には、5千巻を越える教典が蔵されているという。
ほんの一部である。



大音声で読みあげる僧侶もいれば、殆ど発声しない僧侶もいる。
だがしかし、その音声は、陰々と或いは朗々と耳を打つ。
広大な境内に響くのである。



解散した夕。
赤い夕陽があった。

冒頭に述べたように、主宰が参加。
春兎編集長と,校正をしつつ参加されたのであった。
主宰は、昼食後印刷屋さんへ!
「全員から一句!」と言いおいた。

途端に、全員が俳句脳となった。
忽ち、全員から句が集まった。
句を書き連ねたのは、チラシの裏面。

参加された皆さんの,力は凄い。
そう感じた一日でもあった。



        荒 野人

ムスカリ

2014年04月18日 | ポエム
ムスカリ・・・春を告げる紫色である。



ムスカリの花言葉は・・・。
「通じ合う心」「失望」「失意」「絶望」「寛大な愛」「明るい未来」である。




   ムスカリ


  そう
  小粒でコケテッシュな花が
  美しいソプラノで声を転がしていく
  一つ一つの音声が鮮明に
  転がり込んでくる

  ムスカリが咲いて
  また一つ春が深まった




何年か前、ふっと思い文字にしたのである。

実は、昨日平林寺の大祭に出かけたのであった。
半増坊の大祭であって、そのメルクマールは「転読」である。



多くの住持が、一斉に教典を誦す。
壮大な音の世界である。



教典に風を通す、年一回の行である。
明日改めて、報告したいと思っている。



      荒 野人

八重桜

2014年04月17日 | ポエム
八重桜を見に出かけた。
場所は、江戸時代には「物見遊山」の名所だった飛鳥山公園である。



見事な八重桜が満開であった。








桜は、被災地でも咲く。
悲しみを吸いこんで、咲くのだ。

桜の森の満開の下、は怒涛のように風が吹く。
吹き去って、悲しみを消し飛ばしてしまえ!

だがしかし、営みの刻まれた「慟哭の土」はそこに座っている。
悲しみは、いつまでも消えない。



さて、飛鳥山である。
老若男女の「さざめき」が耳を打つ。
そう・・・これで良いのだ。
と、バカボンのパパも言っている。

悲しみをいつまでも抱えるなよ!
八重に咲く華やかな桜だけれど、どこか寂寥を持っている。
華やかは、質朴の裏返し。
内包する、人としての悲しみであるのだ。







「一重八重花のさかりのすれちがい」







初めて、東京で暮らし始めた時「飛鳥山」に憧れた。
山があるのだと、そう思い込んだものだった。

山梨のヤマザルの、ホームシックを慰めてくれた「地名」であった。



いまでも、そう胸に刻まれている。
長じて、現実を知るのだけれど、それでも飛鳥山は懐かしい。



       荒 野人

ひこばえ~孫生え

2014年04月16日 | ポエム
春の季語である。
生を慈しむ、美しい言葉である。



とりわけ、桜の黒い幹から枝葉が生まれる。
それはそれは、生きる事、生命力の神秘。
生へのパトスを掻き立てる、営みである。



ひこばえで句を詠む。
だがしかし、生命力の横溢した現象の前に佇むしかない。

この凄まじき命。
だがしかし、かそけき命。
儚なくも美しい命。



ぼくは、頭を垂れて乞い願う。
俳句の神様は、いつになったらぼくの上に降りてくるのだろうか?
と。







「ひこばえの瘤のあたりの熱のほど」







春の半ばにさしかかろうとする「風光る」侯である。



    荒 野人