自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

☆メディアのツボ-14-

2006年09月16日 | ⇒メディア時評

 たとえば事件があったとする。その見方というのはそれぞれの関わり方によって違うものだ。1972年2月、銃を持った連合赤軍の若者が長野県南軽井沢の企業保養所「浅間山荘(あさまさんそう)」に押し入り、管理人の女性を人質に立てこもるという事件があった。警察関係者ならば「過激派による銃撃で2人の殉職者を出した大事件」と言うだろう。ところがテレビ業界では「民放とNHK合わせて89.7%の驚異的な視聴率をとった事件。あの記録はまだ破られていないはず」と言う。

       浅間山荘事件とテレビ

  河出文庫から出ている「浅間山荘事件の真実」を読んだ。元・日本テレビのアナウンサー、久能靖氏の著書だ。この本の見どころは、当時の報道陣が取材現場の視点で書いた初の本というだけでなく、記述が詳細なので、34年前のテレビ局が事件をどう伝えたのかを知る放送史上の貴重な資料であるという点だ。

  それだけ高視聴率を取った事件でも、時は流れ、連合赤軍の名前すら聞いたこともないという若者も多い。そこで簡単に説明しておくと、キューバ革命のチェ・ゲバラを崇拝し世界同時革命をめざす赤軍派と、毛沢東理論で一国革命を唱える京浜安保共闘が連携したゲリラ組織だ。群馬、長野の冬の山中を警察に追われながら逃げ延び、ついに浅間山荘に人質を取って立てこもる。ライフル銃や猟銃のほか実弾2千発余り、手投げの爆弾も持っていた。

  当時はテレビが白黒からカラー化への普及段階だった。しかも、中継設備といっても、現在のように通信衛星を使って映像素材をリアルタイムに伝送するSNG(Satellite News Gathering)という仕組みはない。中継はマイクロ波を小型パラボラアンテナで何段にもつないで現地と東京を結ぶやり方。いったん固定すると機動性はなく、動きのある事件には対応し切れないという難点があった。

  犯人が立てこもってから10日目、いよいよ人質の生命が危ういと警察側は判断し、強行突入し救出作戦に入る。人命尊重を第一に慎重な態度を崩さない警察に対し、「警察のやり方は手ぬるいのではないか。だから過激派がはびこる」というような批判もピークに達していた。そのタイミングでの突入だったので、視聴率が一気にアップした。

  午前10時ごろからの突入のシナリオはすべて警察とメディアの「報道協定」で取り決めがなされていた。雑誌を含む新聞、テレビ、ラジオなど52社との協定は当時とすれば「史上空前の大報道協定」(「浅間山荘事件の真実」)だった。また、犯人を射殺した場合、射殺した警察官の氏名は公表しない、事件解決後のムービーカメラによる現場撮影は3分(100フィートのフィルム1本分)といった内容まで協定で細かく決められていた。

  午前10時に突入して午前中には終えると思われていたシナリオが狂う。催涙ガスと放水で警察自身もなかなか前に進めない。警官2人が射殺される。この様子は生中継でアナウンサーが逐一リポートする。即時性というドラマが視聴者の目の前でパノラマのように展開された。日本テレビの場合、9時間に及ぶ中継だった。当時、高校生だった私自身もテレビにクギ付けだったことを覚えている。

  この浅間山荘事件が放送史で画期的だったのは、89.7%という驚異的な視聴率だけではない。何よりも報道におけるテレビの存在感を視聴者に植えつけたことだ。1991年1月の湾岸戦争を中継し続けたアメリカのCNNが一躍メジャーになったように、である。

  犯人の引き回しの映像の中継に成功したのはフジテレビだけだった。NHKも日本テレビも中継ポイントの設定を見誤った。早々に事件は解決すると踏んで、犯人の引き回しは山からの俯瞰(ふかん)で撮影する予定だった。ところが夕方になってしまい暗くなった。当時は夜間の高感度カメラの技術はまだ途上だった。放送終了後に帰社した中継スタッフは慰労の言葉どころか大目玉をくらったようだ。テレビの裏面史を読ませてもらった。

 ⇒16日(土)夕・金沢の天気  くもり 

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