加賀藩には徴税能力に長けた知恵者がいた。当時貴重品だった塩釜=写真=は、塩士(しおじ)と呼ばれる能登の製塩業者に13年の分割払いで貸付けられた。つまりリースされたのである。
1年のリース代は米ベースで5斗(0.5石)だった。13年のリースのうち、藩が6年分を、鋳物師が7年分を分け合った。加賀藩は6年分を徴収する代わりに「諸役免除」と、運転資金となる「仕入銀」を与えた。13年のリース切れのものは塩士に払い下げられた。この「塩釜リース」は江戸時代初期の慶長10年(1605)には塩釜835枚、中期の元文2年(1737)年には塩釜2000枚が貸し付けられたという内容の古文書(複製)も展示されている。膨大な量の塩を独占した加賀藩は余剰となった塩を、相場をにらんで大阪に回した。
面白いのはこのリースというビジネスモデルを中居の鋳物師たちは独自に応用し、「貸鍋(かしなべ)」という、自作農民を相手にした鍋のリース事業を展開する。「1升鍋」のリース代は米1升(1.8㍑)、2升鍋は米2升で無償修理とした。鍋釜は高根の花だったのである。これが当たってビークで3000枚の鍋リースを事業展開する。鍋だけで中居には100石の米が集まった。いまでいうコピー機の製造メーカーが事業所にメンテナンス付でリースするのとよく似ている。
塩釜や鍋のリース事業のほか、寺社向けの梵鐘の製造販売、武具や金具の製造など産地形成がなされたものの、ある意味で官業に付随し、安穏と利益を得たツケはいずれ回ってくる。技術イノベーションへの取り組みが遅れるのである。中居が製造していた塩釜は「十鍔釜」(形太釜)と呼ばれ、底が深く、熱伝導が悪いものだった。同じ加賀藩の高岡鋳物で生産された浅釜は直径が長く、平底だったので格段に熱伝道がよかった。そこで、能登の塩釜はこの高岡釜に取って代われる。元文2年(1737)には2000枚を誇った貸付物件は、明治12年(1879)に600枚と激減している。明治以降、中居の鋳物職人たちは高岡産地などに吸収されていく。昭和9年(1934)に300年余り続いた塩釜リース事業を終えたとき、51枚になっていた。
藩政時代、米1石は武士の1年の生活給の目安だった。加賀百万石というのは100万人の武士を雇える財力ということである。その租税はこうした、加賀藩によってハンドリングされた塩士や鋳物師、農民の労働の結晶でもあった。
これでコラムを終わっては「中居の鋳物物語」はさみしい。中居の鋳物の伝統は消え去ってしまったのか。いや、いまに生きている。天正9年(1581)、初代の加賀藩主である前田利家は、中居から一人の有能な鋳物師を金沢に呼び寄せ、禄を与えて武具などの鋳造を行わせた。宮崎義綱(みやざき・よしつな)だった。その子・義一(よしかず)は、加賀藩に召し抱えられた茶堂茶具奉行の千宗室仙叟によく師事し、茶の湯釜の制作を学び、多くの名作を残す。仙叟から「寒雉(かんち)」の号をもらい、加賀茶の湯釜の創始者として藩御用釜師のステータスを得る。その技術は現在も代々脈打つ。「寒雉の釜」はいまも茶人の垂涎(すいぜん)の的である。
⇒17日(日)午前・