自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

☆文明論としての里山7

2010年01月10日 | ⇒トレンド探査

 「もったいない」という言葉はいま様々に使われている。環境、省エネ、ライフスタイル、道徳、躾(しつけ)などの場面で登場する。もともと、「もったい」は「勿体」、つまり「物の形」「物のあるべき姿」である。それが「ない」。つまり、「物のあるべき価値が失われる」というふうに自分なりに解釈している。

           転換期のニューカマー

  痛切に感じる「もったいない」は「土」と「人」の失われた関係である。耕作放棄地や荒れ放題の山々を見るがいい。祖先は生きる糧を食料に求め、開墾し耕した。心血を注ぎ、田を耕し命をつないできた。それを子孫はあっさりと捨てて都会に出て行く。労働と引き換えに貨幣を得て、商品を得る。コマーシャルリズムに踊らされて、トレンドだ、ブランドだと物への欲望をかきたてる。商品取引イコール経済活動という交換経済の中に埋没していた。

 こんな話を耳にした。いわゆる「団塊の世代」の男性。地方出身で都会で会社定年を迎え、改めて生まれ故郷を見渡すと、山河が荒れ放題になっていた。「これまで薄っぺらな都会の消費生活に惑わされていた」と気づいた。「我々の同年代は元気だと世間ではいわれるが、故郷に帰って田畑を耕したり、山を整備する元気はない。田舎に帰ろうにも家族の同意が得られない。同じように悩んでいる地方出身者は多い」と自らの無力感を語って見せた。

  いまの日本を覆う「乾いた雰囲気」は、危機感の前兆だと考えている。物欲に熱狂していた、ほんの数年前まではよかった。それが、金融資本主義が空虚な「ババ抜き」だったと露呈した「リーマン・ショック」(08年9月)の連鎖反応ですさまじい経済不況がやってきた。商品が買えなくなり、熱狂が冷めた。将来の人生と生活をどうすればよいのかと漠然とした不安が若者の間に巻く。前述の団塊の世代が感じ始めている自らの無力感、そして若者が感じている漠然とした不安感がない交ぜになって、日本を「乾いた雰囲気」を覆う。

  デフレスパイラル。人々は、これまで享受してきた「日本の富」は減少し、復活はないと感じ始めている。日本だけではない。リーマン・ショックの震源地アメリカや、ヨーロッパの人々もおそらく感じているだろう。上り調子のインドや中国などは自らの旺盛な物欲で経済が回ってはいるが、早晩「バブルのツケ」も回ってくる。

  「真の豊かさ」とは何か。人間の生きる価値とは何か。人々がずっと追い求めてきたテーマが戦後の振り出しに戻った。そんな感じである。しかし、次にくるのは危機感だ。これまでの「富の源泉」が一体どこから来ていたのか、人々が考えたとき、そこが荒れ果てた姿になっていて愕然とするだろう。農地、川、山のことである。

  最近面白い現象が起きている。農業に関心を持つ若者が増えている。能登半島。金沢大学が実施している、農林水産業の環境人材を育てる「能登里山マイスター」養成プログラムでは現在40人の社会人が学んでいる。そのうちの7人は東京や名古屋といった都会からの移住組である。彼らは自分の体を使い、労働を介して自然とつながれば生きていける、あるいは富の源泉である自然とかかわることで新たなビジネスを始めたいと能登半島にやってきた。それは人間の本来の、自然とかかわり産み出すという本能的な感覚だ。私は彼らを「ニューカマー(newcomer)」と呼ぶことにしている。土地は不動であり、そこを行き交うのは人々である。土地に魅力を感じなくなった人々がその土地を去った後、「もったいない」と荒れ果てた土地を再び開墾するためにやってきたパイオニアである。

  これは予兆ではないかと考えている。金沢大学の能登プログラムだけで7人である。この若者の「帰農現象」は福島県や山梨県などで顕著で、全国規模だとおそらく数千人規模で起きているのではないかと推測している。さらにこの現象は加速し、近未来で数十万人にブレイクするのではないか。文明の転換期に繰り返されきた人々の移動ではないか、そんなふうに直感する。

 ⇒10日(日)夜・金沢の天気  くもり

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