還暦を過ぎて、自分の至らなさにハッとすることが多々ある。過日寺が点在する金沢の東山界隈を歩いていると、山門の掲示板にあった「その人を憶(おも)いて、われは生き、その人を忘れてわれは迷う」という言葉が目に入った。仏教的な解釈は別として、人は若いころは諸先輩の言葉に耳を傾けていても、加齢とともに聞く耳を持たなくなり、我がままに迷走するものだと。これって自分のことではないか、と気がついて掲示板を振り返った・・・。
熊本、そして伊勢志摩の旅で目にしたこと
今年訪れたプラベイトな旅先をいくつか振り返る。10月8、9日日、熊本を訪れた。地震から半年たった現状を見たいと。そして、現地では大変なことが起きていた。8日午前1時46分ごろ、阿蘇山の中岳で大噴火があった。このことを知ったのはJR「サンダーバード」車内の電光ニュース速報だった。熊本に着いて、タクシー運転手に「阿蘇山まで行って」と頼んだ。すると運転手は「ここから50㌔ほどですが、おそらく行っても、帰る時間は保障できない」と言う。聞けば、熊本市内と阿蘇を結ぶ国道57号が4月の地震で寸断されていて、迂回路(片側1車線、13㌔)は慢性的な交通渋滞になっている。さらに、今回の噴火で渋滞に拍車がかかっている、という。プロの運転手にそこまで言われると、無理強いもできない。「それでは益城(ましき)町へ行ってほしい」と方針を変えたのだった。
ともとも益城町へ行く予定だった。4月14日の前震、16日の本震で2度も震度7の揺れに見舞われた。今はほとんど報道されなくなったが、現状を見て愕然とした。新興住宅が建ち並ぶ中心部と、昔ながらの集落からなる農村部があり、3万3千人の町全体で5千棟の建物が全半壊した。実際に行ってみると街のあちこちにブルーシートで覆われた家屋や、傾いたままの家屋、解体中の建物があちこちにあった。印象として復旧半ばなのだ。
とくに被害が大きかった県道沿いの木山地区では、道路添いにも倒壊家屋があちこちにあり、痛々しい街の様子が。タクシー運転は「先日の新聞でも、公費による損壊家屋の解体はまだ2割程度しか進んでいないようですよ」と。そして農村部では倒壊した家の横にプレハブ小屋を建てて「仮設住宅」で暮らしている農家もある。益城ではスイカ、トマトなどが名産で、被災農家は簡単に自宅を離れられないという事情も想像がついた。
噴火と震災のクマモト。言葉で「復興」「復旧」「再生」は簡単だが、それを実施する行政的な手続き、復興政策の策定には時間がかかる。時間と戦いながら丁寧な行政手続きを進める、日本型の復興モデルになってほしいと心から願った。
ゴールデンウイークの5月3日、伊勢志摩を訪れた。その月の26、27日に伊勢志摩サミット(主要国首脳会議)が開催されるとあって、賢島(かしこじま)駅の周囲ではものものしい警備体制の様子だった。道路には随所に警察の警備車両が配置され、機動隊員が立っている。集落の細い道では自転車に乗って巡回している警察官も見えた。
英虞湾を望む風景はまさに、人の営みと自然が織りなす里山里海の絶景だった。真珠やカキの養殖イカダが湾の入り組みに浮かぶ。昭和26年(1951)11月にこの地を訪れた当時の昭和天皇は「色づきし さるとりいばら そよごの実 目にうつくしき この賢島」と歌にされた。晩秋に赤く熟した実をつけたサルトリイバラ(ユリ科)とソヨゴ(モチノキ科)が英虞湾の空と海に映えて心を和ませたのだろう。昭和天皇はその後も4回この地を訪れている。歌碑は志摩観光ホテルの敷地にある。その少し離れた横に俳人・山口誓子の句碑もある。「高き屋に 志摩の横崎 雲の峯」。ホテルの屋上から湾を眺めた誓子は志摩半島かかる雲のパノラマの壮大な景色をそう詠んだ。志摩観光ホテルはサミット会場となった。各国首脳はこの景色を臨んで何を思ったのだろうか。
鳥羽市にある相差(おおさつ)海女文化資料館を訪れた。海女たちがとったアワビを熨斗あわびに調製して、伊勢神宮に献上する御料鰒調製所がある。二千年の歴史があるといわれる。資料館では、石イカリがあった。平均50秒という海女さんの潜水時間を有効に使うため、速く深く潜るための道具である。石を抱いて海に潜った海女がアワビをとり、命綱をクイクイと引っ張ると、舟上の夫が綱をたぐり寄せて海女を引き上げる。セイマン(星形)とドウマン(網型)は海女が磯着に縫った魔除けのまじない。それほどに命がけの仕事でもあった。
これだけの歴史と文化、潜水技術を有する伊勢志摩の海女のエリアだが、ユネスコは先月30日、韓国が申請した「済州の海女文化」を無形文化遺産に登録した。海女文化は日本と済州島にしかないとされ、日韓共同での登録を目指す動きもあったが、残念ながら日本側の申請作業が進まず、韓国の単独登録となってしまった。
⇒26日(月)夜・金沢の天気 くもり
熊本、そして伊勢志摩の旅で目にしたこと
今年訪れたプラベイトな旅先をいくつか振り返る。10月8、9日日、熊本を訪れた。地震から半年たった現状を見たいと。そして、現地では大変なことが起きていた。8日午前1時46分ごろ、阿蘇山の中岳で大噴火があった。このことを知ったのはJR「サンダーバード」車内の電光ニュース速報だった。熊本に着いて、タクシー運転手に「阿蘇山まで行って」と頼んだ。すると運転手は「ここから50㌔ほどですが、おそらく行っても、帰る時間は保障できない」と言う。聞けば、熊本市内と阿蘇を結ぶ国道57号が4月の地震で寸断されていて、迂回路(片側1車線、13㌔)は慢性的な交通渋滞になっている。さらに、今回の噴火で渋滞に拍車がかかっている、という。プロの運転手にそこまで言われると、無理強いもできない。「それでは益城(ましき)町へ行ってほしい」と方針を変えたのだった。
ともとも益城町へ行く予定だった。4月14日の前震、16日の本震で2度も震度7の揺れに見舞われた。今はほとんど報道されなくなったが、現状を見て愕然とした。新興住宅が建ち並ぶ中心部と、昔ながらの集落からなる農村部があり、3万3千人の町全体で5千棟の建物が全半壊した。実際に行ってみると街のあちこちにブルーシートで覆われた家屋や、傾いたままの家屋、解体中の建物があちこちにあった。印象として復旧半ばなのだ。
とくに被害が大きかった県道沿いの木山地区では、道路添いにも倒壊家屋があちこちにあり、痛々しい街の様子が。タクシー運転は「先日の新聞でも、公費による損壊家屋の解体はまだ2割程度しか進んでいないようですよ」と。そして農村部では倒壊した家の横にプレハブ小屋を建てて「仮設住宅」で暮らしている農家もある。益城ではスイカ、トマトなどが名産で、被災農家は簡単に自宅を離れられないという事情も想像がついた。
噴火と震災のクマモト。言葉で「復興」「復旧」「再生」は簡単だが、それを実施する行政的な手続き、復興政策の策定には時間がかかる。時間と戦いながら丁寧な行政手続きを進める、日本型の復興モデルになってほしいと心から願った。
ゴールデンウイークの5月3日、伊勢志摩を訪れた。その月の26、27日に伊勢志摩サミット(主要国首脳会議)が開催されるとあって、賢島(かしこじま)駅の周囲ではものものしい警備体制の様子だった。道路には随所に警察の警備車両が配置され、機動隊員が立っている。集落の細い道では自転車に乗って巡回している警察官も見えた。
英虞湾を望む風景はまさに、人の営みと自然が織りなす里山里海の絶景だった。真珠やカキの養殖イカダが湾の入り組みに浮かぶ。昭和26年(1951)11月にこの地を訪れた当時の昭和天皇は「色づきし さるとりいばら そよごの実 目にうつくしき この賢島」と歌にされた。晩秋に赤く熟した実をつけたサルトリイバラ(ユリ科)とソヨゴ(モチノキ科)が英虞湾の空と海に映えて心を和ませたのだろう。昭和天皇はその後も4回この地を訪れている。歌碑は志摩観光ホテルの敷地にある。その少し離れた横に俳人・山口誓子の句碑もある。「高き屋に 志摩の横崎 雲の峯」。ホテルの屋上から湾を眺めた誓子は志摩半島かかる雲のパノラマの壮大な景色をそう詠んだ。志摩観光ホテルはサミット会場となった。各国首脳はこの景色を臨んで何を思ったのだろうか。
鳥羽市にある相差(おおさつ)海女文化資料館を訪れた。海女たちがとったアワビを熨斗あわびに調製して、伊勢神宮に献上する御料鰒調製所がある。二千年の歴史があるといわれる。資料館では、石イカリがあった。平均50秒という海女さんの潜水時間を有効に使うため、速く深く潜るための道具である。石を抱いて海に潜った海女がアワビをとり、命綱をクイクイと引っ張ると、舟上の夫が綱をたぐり寄せて海女を引き上げる。セイマン(星形)とドウマン(網型)は海女が磯着に縫った魔除けのまじない。それほどに命がけの仕事でもあった。
これだけの歴史と文化、潜水技術を有する伊勢志摩の海女のエリアだが、ユネスコは先月30日、韓国が申請した「済州の海女文化」を無形文化遺産に登録した。海女文化は日本と済州島にしかないとされ、日韓共同での登録を目指す動きもあったが、残念ながら日本側の申請作業が進まず、韓国の単独登録となってしまった。
⇒26日(月)夜・金沢の天気 くもり