いま、新鮮な魚を食べたくても、近くの商店街の魚屋さんがだんだん少なくなって、容易に
買えなくなってしまった。スーパーがあっても近海の鮮魚は少ない。ショッピングセンターや
デパートに魚の専門店はあるが、たいていは遠くて、わざわざ出かけるという感じで、ふだん
の買い物には向かない。
なぜ、魚屋さんが少なくなったかというと、消費者が買わなくなったからで、消費者がなぜ
買わなくなったからというと、買い物の仕方が変わってしまったということだ。ところが魚屋
さんはその場所から簡単に移動できるかといえばそうはいかない。このことは魚屋さんだけの
ことではなく、八百屋さんだって、肉屋さんだって、だいたい同じような道をたどっている。
それでは、われわれ日本人が魚を食べなくなってしまったかというと、そうでもない。
ただ、食べ方が大きく変ってしまったのではないかと考えられる。家庭で食べるより外食で魚
を食べる――その端的な例が回転寿司だ。また、蒲鉾やはんぺんなど加工食品として食べてい
る。それは確かに魚には違いないが、魚そのものではない。
われわれが普通、魚を食べると言えば、生の刺身か、焼くか、煮るか、揚げるかを連想する
が、そうした食べ方がどんどん減ってきていることが考えられる。特に小魚は骨が嫌われて
敬遠される。また、さばいたり調理をするのも時間がかかることも敬遠される理由と考えられ
る。
そればかりが理由ではないが、結果として魚屋さんで魚が売れなくなったから、町の魚屋さ
んはどんどん減ってしまった。そうすると、こんどは魚を食べたい人も身近に魚を買うところ
がなくなってしまった。この人たちをわたしは「鮮魚難民」だと思っている。わたくし自身も
かつて鮮魚難民だった。
いまの経済原理からすれば、需要があるところには必ず供給者が現れるのだが、この「鮮魚
難民」を救うものが現れない。鮮魚難民に気付かないのだろうか? そんなことはない。産地
直送の通販業者がそれに目をつけている。だが、家庭の日常の食卓に遠路はるばる宅配便で魚
が配達されてくるかたちは、いかにも非効率という感じがする。
流通の先端にあるCVSやスーパーが、いわゆる鮮魚をもっと積極的に扱えば良さそうなも
のだがそうでもない。現状ではスーパーに魚はあるが、鮮魚難民の求めている魚とは違うよう
だ。鮮魚難民の心を捉えていないようだ。そこに「鮮魚」固有の扱いにくい「問題」があり、
ニッチな需要かも知れないが、解決の難しい「難題」なのではなかろうか。
野菜は、地産地消の流れに乗って各地で生産者の直売が盛んになって、「新鮮野菜」が手に
入りやすくなった。また、スーパーでも必ずといってよいほど「地場野菜」コーナーがあって
町の八百屋さんに取って代わっている。町の肉屋さんも少なくなってしまったが、これも大手
流通が十二分にその代役を果たしている。
それでは、鮮魚固有の「流通問題」とは、いったい何なのか。
一つは、商品そのものの持っている性質。鮮度保持時間が短く、常に冷蔵管理をしなければな
らないこと。種類が多く、大小不揃いで、包装・陳列が容易でないことなどが挙げられる。
流通の問題としては、入荷(仕入れ)が不安定な上に、価格変動があって、定常的な販売に適
さない。
次に消費者の側の問題――これはいくらでもある。
さばけない・調理が出来ない・難しい・時間がかかる・食べにくい・日持ちしない・台所が汚れる・
臭い、匂う、美味くない、肉より高い、などなど。それには、マンションなどの住環境も影響
しているものもあり、また商品知識が乏しいことも挙げられる。
家庭における「魚食力の低下」現象が起きている。その結果が町から魚屋さんがだんだん少
なくなって「鮮魚難民」がうまれた。いま営業中の魚屋さんに「頑張ってください」とエール
を送りつつ、わたしは「難民救済」に立ち上がることを決意する。