魚のアトリエ”うおとりえ”

新鮮な魚を美味しく食べたい!!
 「魚っ食いの365日

魚談義――漁業:それは生産計画のない生産業

2011年02月19日 | 魚談義


”獲れるだけ獲る”時代ではない!! 
食糧の生鮮3品のうち生産計画を持たない生産業は漁業だ。農業は作付けの段階で、
ある程度の収量が見通せる。また出荷調整も若干できる。
畜産業も計画的であるといえる。
もちろん、天候や予想外の事態で変動要因はあるが、概ね見通すことはできる。

 漁業は、養殖事業を除けば、魚そのものを生産しない「資源採集業」だ。
明日の漁獲の保証は何もないから、獲れるときに獲る。もちろん資源保護の観点から
魚種ごとの漁獲量や期間の規制はあるが、漁獲計画=出荷計画はないと理解している。
一部に例外的に計画的生産・計画的出荷をしているものがあるかも知れないが・・・。

 魚の成育・回遊次第、天候次第で漁獲量は変動するから、漁獲量=供給量となって
市場に出荷される。その増減の振幅は大きい。概ね需給関係が市場価格に反映するから
常に価格が安定しない。
その結果は、生産者にも消費者にも何の恩恵ももたらしていない。せっかく豊漁となっ
ても一時的に消費者は喜ぶかも知れないが、漁業者は豊漁貧乏という結果となる。

 消費量も若干多くなるかも知れないが、一人ひとりの「食べる量」はほぼ一定である
から必要以上のものは不要となる。時には廃棄されているものと推量する。
魚も安定供給の方策を探らないと、漁業は衰退し、消費者もますます魚離れするものと
考える。

 いま、市場に余った魚はどうなるかというと、産地市場や消費地市場で出荷・販売調
整されることとなる。魚の鮮度を落とす要因になる。価格を下げて魚をさばくことになる。
どこかで、誰かが不味い魚を食べることになる。
魚は不味いものと思わせている一つの要因になっているやも知れない。

 この問題を解決しなければ、漁業の明日も、魚食の未来もない。
解決手段の一つは、計画的な漁獲生産である。魚種ごとにあるいは総漁獲量を定めた
漁業に転換すべきである。関係者からもそのことが提起されているやに聞くが、早急に
実現することが望まれる。

 それでも漁獲量の変動は、漁業の性格上避けられない。もう一つの解決策は流通機構
がどこかの段階で、余剰品を二次加工し、付加価値をつけて商品化することである。
余剰産品を二次加工するということは、その時だけ稼動するという非効率な事業となるから、
問題なしとはしないが、そういうところにこそ、政策的・制度的に解決すればよい。
 


 
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魚談義――魚調理技術者を惜しむ

2011年02月19日 | 魚談義
  

 町の魚屋さんが、だんだん少なくなって行くということは、それだけ魚調理技術者がいなくなって
しまうということになります。 魚屋さんは、むかしから魚をさばいてお客さんに渡していました。
その時、食べ方をアドバイスしながら売っていました。今風に言えば、コンサルティングセールスを
してきたのです。

 以前は、今よりも家庭で魚をさばける主婦が多かったとはいえ、イワシ・アジなどの小魚は別として
サバより大きな魚は、店頭でさばいてくれていたように記憶しています。特にお刺身などは、大皿に盛
り合わせてもらっていました。

 町の魚屋さんがなくなってしまうと、いわば、町の調理師がいなくなってしまうことになります。
われわれ家庭の魚調理を支えてくれていた人たちの力を借りられなくなるということは、家庭における
「魚食力」の低下につながります。

 デパ地下の魚屋さんでも、スーパーの魚屋さんでも、頼めばさばいてはくれますが、そこにはあまり
会話がありません。いつも同じ店員さんとは限らず、顔見知りになるということは不可能です。専業の
魚屋さんとはキャリアも違うと思います。

 魚をさばくという技術は、理屈より経験ですから、何百、何千さばいて習得するものです。一朝一夕
に得られない技術なのです。それは、自分がいまさばいていてよく分かります。魚屋さんの廃業ととも
に、この社会から貴重な技術・技能を失ってしまうわけですから、大変惜しむべきことであり、大
いなる損失であります。その損失は、われわれが蒙るわけです。

 肉屋さんで肉を買って、持ち帰って再び魚のように切り分け・さばくようなことはありません。陳列
もそうです。牛が豚が鶏が店頭でぶら下がっていることはありません。ところが魚は、海で泳いでいた
ままの姿で、店頭に並んでいます。肉と大きな違いですね。魚は、現在の住環境、台所事情に合わない
ですね。いきおい魚(鮮魚)は、切り身で売る、切り身で買うということになります。

 そうすると、われわれに身近な沿岸・近海の小魚は敬遠されることになります。わが国は長い海岸線
を持つ国ですから、近くで獲れる魚は新鮮で美味しい魚が多いのです。ところがこうした魚をさばいて
くれる魚屋さんがなくなるということは、われわれは新鮮で美味しい魚を食べられないということにな
ります。そこに「鮮魚難民」が生ずるわけです。

 時代にあった「魚屋」でなければならないと思います。今やその危機にあります。飛躍しますが、
世界の食糧問題は、われわれの足元にある日々の問題として捉える時ではないでしょうか。
町の魚屋さんの現状と、家庭の「魚食力」の低下とが、リンクしていることは間違いありません。
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