ふかよんライフスタイルファンド日記Ⅱ

生活・仕事・遊びのポートフォリオを重視し、ライフスタイルの「運用」を考えていきます。

禅的柔軟

2011-09-26 09:17:19 | Weblog
禅的柔軟とは、どのようなことをするのか?

 「柔軟な体」というと通常は、例えば開脚の角度が広がるとか、上体がよく曲がるなど、形や角度に目がいきがちですし、通常の「柔軟」はそのような体を目指すことが多いと思います。ですが、ここに微妙な問題があって、例えば180度の開脚ができる柔らかい体の人でも、常に腰に負担がかかっていて、腰痛があることも少なくありません。また、上体がベターッと床につく人でも、上体を楽に丸めることはできず、腰痛持ちであること場合もあります。私は、長年の坐禅や姿勢・呼吸の探求や、人に教えてきた経験から、「柔軟」ということには、「形」や「角度」などを超えた次元の問題があることがわかってきました。形や、先入観や、特定の方法など、あらゆるものへの執らわれを超えて探求する次元の柔軟さがあることがわかり、それを「禅的柔軟」と名づけました。そこを各自が探求していけるような場を開きたいと思います。
 腰痛や肩こりからの解放、発声・スポーツなどの身体技能の向上、自然な美しさや品格を備えた体を目指すことなどに役立つだけでなく、さまざまな執らわれを脱して本来の自由な身心で生きていくことを目指せればと思います。

禅の根本としての「柔軟」

  私が「禅的柔軟」と名づけた理由は、上に記したような私自身の体験に加えて、道元禅師の師匠が、禅の根本として、「柔軟」という言葉を用いているのを知ったことです。
 道元禅師は、師匠の如浄禅師とのやりとりを記した記録から、「柔軟」がいかに深い意味で用いられているかを見てみましょう。
 道元禅師が、「どのようにして心の柔軟を得るのですか」(作麼生是得心柔軟))と尋ねたのに対し、師の如浄禅師は、「仏や祖師方が、身心脱落を修行するのが、すなわち柔軟心だ。これが根本である」と答えます。(弁肯仏仏祖祖身心脱落乃柔軟心也)
 ここで「柔軟」とは、単に身体が柔らかいという意味で用いられているのでなく、「心の柔軟」であり、それは「身心脱落」を行じていくことだと述べられています。これが仏教や坐禅の根本であり、そのような柔軟を行じていければと思います。

出所:天正寺ホームページ
http://www.geocities.jp/tensho_ji/sub3.html

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昨日、都内で、天正寺住職の佐々木奘堂師から禅的柔軟の指導を受けました。

百丈が「放捨身心全令自在」(身心を放ち捨て、全く自在にさせよ。)と言い、道元もその師の如浄の対話において、「仏祖は常に欲界にありて坐禅弁道す。…心の柔軟を得るなり。」(仏や祖師がたは、常に、この欲にまみれた世界にいて、そこで坐禅や仏道修行します。…そして心の柔軟を得るのです。)との語録を残しています。

昨日の座禅で、禅は、自在な身心、心と身体の柔軟を求めていくものだと気づかされました。

In Tokyo, I received instruction of the flexibility of the Zen from Joudou Sasaki-sensei of the Tenshoji chief priest yesterday.
Baizhang Huaihai said "Cast aside body and mind and set them free."
Dougen received the following teaching from Nyojou.
"Priests always do posture of contemplation and ascetic practices in the world where there is a lot of greed. … And they get the flexibility of the heart."
I participated in Zen meditation yesterday, and I noticed that the Zen demanded free mind and body, a heart and physical flexibility.
コメント (2)
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