昨夜”憂さ晴らし”に、歌でも唄ってやれと実行した。
本来なら仮眠をとっている時間帯であり、日が改まる頃には出発する計画であった・・・・のです。
お世辞にも、歌うことが”上手い!”とは云えない。
しかし、採点者(機械)以外は、聴く人の居ない”一人カラオケ”である。
お許しあれ!
何曲か目に「帰って来いよ」という演奏があることを見付け、唄ってみた。
そして、何んと壮大な風景を感じさせられる”詩”ではなかろうか!と思った。
お断りをしておきたいが、私がイメージする主題の「岩木山」は青森県の岩木山であると思っている。
何故かと言うと、津軽の風・林檎の花など、青森県・岩木山を感じさせられる歌詞からである。
岩木山には、忘れることが出来ない思い出(「バイク旅行中の出来事 そのⅡ(2012.06.05)」)がある。
この”岩木山事件”があって、今回の「東北五大祭りツーリング PartⅡ」が計画されたものである。
従って、少なくとも”岩木山”を知っていると自負するなかで考えさせられる歌詞と云う事である。
「お岩木山から手を振れば、あの娘は小さく頷いた」と言う歌詞である。
あの娘が、東京へ行くにあたっての移動手段として、鉄道線路が付近に無いことから道路なのだろう?
いや、JR五能線で!と言う事なら、もっと壮大な風景が拡がるが、列車は観えると仮にしても”人”の認識となると”夢物語”である。
岩木山の裾野を周回する道路はある。
私の”田舎”の国道沿いの標高30m程ならいざ知らず、標高625m・岩木山の何処からかは知らないが、男が振る手が娘は観えたんかぃ!
そして、男が振る手が観えて、それに応え頷く仕草が、男は観えたんかぃ!
と、思ってしまう。
不穏当な考え・感じ方なのであろうか?
夢がないのぉ!
自問自答である。
岩木山は”津軽富士”とも言われ、津軽平野の何処からでも望むことができる”様”を歌ったものと考えることにした。
しかし、なんと壮大な風景を歌った歌詞ではなかろうかと、考えさせられた。
本来なら仮眠をとっている時間帯であり、日が改まる頃には出発する計画であった・・・・のです。
お世辞にも、歌うことが”上手い!”とは云えない。
しかし、採点者(機械)以外は、聴く人の居ない”一人カラオケ”である。
お許しあれ!
何曲か目に「帰って来いよ」という演奏があることを見付け、唄ってみた。
そして、何んと壮大な風景を感じさせられる”詩”ではなかろうか!と思った。
お断りをしておきたいが、私がイメージする主題の「岩木山」は青森県の岩木山であると思っている。
何故かと言うと、津軽の風・林檎の花など、青森県・岩木山を感じさせられる歌詞からである。
岩木山には、忘れることが出来ない思い出(「バイク旅行中の出来事 そのⅡ(2012.06.05)」)がある。
この”岩木山事件”があって、今回の「東北五大祭りツーリング PartⅡ」が計画されたものである。
従って、少なくとも”岩木山”を知っていると自負するなかで考えさせられる歌詞と云う事である。
「お岩木山から手を振れば、あの娘は小さく頷いた」と言う歌詞である。
あの娘が、東京へ行くにあたっての移動手段として、鉄道線路が付近に無いことから道路なのだろう?
いや、JR五能線で!と言う事なら、もっと壮大な風景が拡がるが、列車は観えると仮にしても”人”の認識となると”夢物語”である。
岩木山の裾野を周回する道路はある。
私の”田舎”の国道沿いの標高30m程ならいざ知らず、標高625m・岩木山の何処からかは知らないが、男が振る手が娘は観えたんかぃ!
そして、男が振る手が観えて、それに応え頷く仕草が、男は観えたんかぃ!
と、思ってしまう。
不穏当な考え・感じ方なのであろうか?
夢がないのぉ!
自問自答である。
岩木山は”津軽富士”とも言われ、津軽平野の何処からでも望むことができる”様”を歌ったものと考えることにした。
しかし、なんと壮大な風景を歌った歌詞ではなかろうかと、考えさせられた。