ふくちゃんの絵日記

バイク等での旅行記や、日常生活で感じたことを、絵(写真)に描けるものは描き(添付)絵日記風にしたいと思います。

☆古き記録 その4(昭和6年8月1日付け朝刊)

2014年09月26日 | 日記
 昭和6年(1931年)8月1日付けの「西日本サイクル・チーム・レース」の関する「大阪毎日新聞」朝刊の記事である。
 
三日目・第三区は下関市から広島市まで、208Kmの距離を走破する。
 写真は、スタート地点である下関駅前をスタートする様子である。
 前日、第二区間(熊本市から門司市)の競技終了後、早鞆瀬戸(関門海峡)を渡船で、下関入りを果たしている。
 海峡大橋やトンネルが無かった時代であって、唯一、交通機関を使った移動である。
 残念ながら、下関市から広島市に至る、第三区における父に関する記録はない。
 ゴール出来なかった様である。
 幼き頃に、父から聞いた「広島までは行ったが・・・・リタイアした」と言う記憶は、ゴール直前でのリタイアであった事が判明した。
 そして、父の「途中放棄=棄権」した無念さが、あらためて理解できた気がした。
 出来ることなら、広島の”ゴール”をさせてあげたい気持ちが、込み上げて来る思いである。
 広島のゴールは、広島市「西練兵場」となっている。
 現在の広島市民球場である。
 例え、広島県に入った直後であったとしても、160Km余りを走りきり、残すは40Kmであったことを思うと、残念でならない。
 父の、この時の無念さを、兄が記憶していた。
 炎天下のロード・レースで「精魂尽きて、生命の危険さえも感じ、棄権することを決断(選択)した」と言う事であった。
 この様な異常な精神状態の最中(さなか)「差し伸べられた食べ物が、極上の思いがした」と言うことにつながるのである。
 父の、鹿児島~大阪1000余Kmの壮大な自転車ロードレースへの挑戦は、鹿児島~熊本~門司の区間(記録上)をもって終焉することとなった。
 しかし、この記事を通じ、考えさせられることがある。
 何故・この様なロード・レースが計画され、実行されたのかと言う事である。
 大会規約に「医学的見地で、体力的・食事・飲料・ユニホームに至る検証を実施する」との記述がある。
 しかし、手元にある新聞記事の記録によってロード・レースが実在したこと、そして、父が参加していたと言う事実以外は、知る由もない。
 私にとっては、父から聞かされていた「鹿児島から大阪までの自転車ロード・レース」の歴史的存在と、父が参加していた事実を聴覚だけでなく視覚(新聞記事)からも理解する結果となった。
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☆古き記録 その3(昭和6年7月31日付け朝刊)

2014年09月26日 | 日記
 昭和6年(1931年)7月31日付けの「大阪毎日新聞」朝刊である。
 即ち、レース二日目の様子を報じるものである。
 二日目は、第二区間・熊本市から門司市まで214Kmである。
 父に関する二日目・30日(第二区間・熊本市から門司市まで214Km)の成績(所用時間)は11時間9分29秒である。
 そして、区間一着との時間差は、3時間53分32秒である。
 レース結果(所用時間)から、二日目に至って、父の体力の消耗が激しくなっていると推測できる。
  
 新聞記事は、全国紙のものである。
 写真は、熊本市をスタートして間もない頃と思われ、現在の日田街道・熊本県農業研究センター付近と想像する場所を駆け抜ける一団が捉えられている。
 炎天下のなか、一路、門司市を目指して・・・・!
 この一団の中に、父が居るのである。
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☆古き記録 その2(昭和6年7月30日朝刊)

2014年09月26日 | 日記
 昭和6年(1931年)7月30日付けの「西日本サイクル・チーム・レース」を主催する、大阪毎日新聞の朝刊である。
    
 ・・・地方版・・・   ・・全国紙・・    
 地表版に、父のスタート時点に関する記述が読み解ける。
 即ち、第一組で(前日の7月29日)午前7時にスタートを切ったと云う内容のものである。
 ここで父の第一区・鹿児島から熊本間、217Kmでのレース結果が明らかになっている。
 所要時間は9時間44分12秒と記録されている。
 因みに、一着との差は1時間58分15秒であった。
 なお、父のチーム成績は、第一区間で棄権者が出たことから、チーム成績は無くなっていた。
 この区間における一番の難所は、標高256mの峠で、上り1800m(傾斜角 約11/100)・下り800mとの、コース記録がある。
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