昭和6年(1931年)8月1日付けの「西日本サイクル・チーム・レース」の関する「大阪毎日新聞」朝刊の記事である。
三日目・第三区は下関市から広島市まで、208Kmの距離を走破する。
写真は、スタート地点である下関駅前をスタートする様子である。
前日、第二区間(熊本市から門司市)の競技終了後、早鞆瀬戸(関門海峡)を渡船で、下関入りを果たしている。
海峡大橋やトンネルが無かった時代であって、唯一、交通機関を使った移動である。
残念ながら、下関市から広島市に至る、第三区における父に関する記録はない。
ゴール出来なかった様である。
幼き頃に、父から聞いた「広島までは行ったが・・・・リタイアした」と言う記憶は、ゴール直前でのリタイアであった事が判明した。
そして、父の「途中放棄=棄権」した無念さが、あらためて理解できた気がした。
出来ることなら、広島の”ゴール”をさせてあげたい気持ちが、込み上げて来る思いである。
広島のゴールは、広島市「西練兵場」となっている。
現在の広島市民球場である。
例え、広島県に入った直後であったとしても、160Km余りを走りきり、残すは40Kmであったことを思うと、残念でならない。
父の、この時の無念さを、兄が記憶していた。
炎天下のロード・レースで「精魂尽きて、生命の危険さえも感じ、棄権することを決断(選択)した」と言う事であった。
この様な異常な精神状態の最中(さなか)「差し伸べられた食べ物が、極上の思いがした」と言うことにつながるのである。
父の、鹿児島~大阪1000余Kmの壮大な自転車ロードレースへの挑戦は、鹿児島~熊本~門司の区間(記録上)をもって終焉することとなった。
しかし、この記事を通じ、考えさせられることがある。
何故・この様なロード・レースが計画され、実行されたのかと言う事である。
大会規約に「医学的見地で、体力的・食事・飲料・ユニホームに至る検証を実施する」との記述がある。
しかし、手元にある新聞記事の記録によってロード・レースが実在したこと、そして、父が参加していたと言う事実以外は、知る由もない。
私にとっては、父から聞かされていた「鹿児島から大阪までの自転車ロード・レース」の歴史的存在と、父が参加していた事実を聴覚だけでなく視覚(新聞記事)からも理解する結果となった。
三日目・第三区は下関市から広島市まで、208Kmの距離を走破する。
写真は、スタート地点である下関駅前をスタートする様子である。
前日、第二区間(熊本市から門司市)の競技終了後、早鞆瀬戸(関門海峡)を渡船で、下関入りを果たしている。
海峡大橋やトンネルが無かった時代であって、唯一、交通機関を使った移動である。
残念ながら、下関市から広島市に至る、第三区における父に関する記録はない。
ゴール出来なかった様である。
幼き頃に、父から聞いた「広島までは行ったが・・・・リタイアした」と言う記憶は、ゴール直前でのリタイアであった事が判明した。
そして、父の「途中放棄=棄権」した無念さが、あらためて理解できた気がした。
出来ることなら、広島の”ゴール”をさせてあげたい気持ちが、込み上げて来る思いである。
広島のゴールは、広島市「西練兵場」となっている。
現在の広島市民球場である。
例え、広島県に入った直後であったとしても、160Km余りを走りきり、残すは40Kmであったことを思うと、残念でならない。
父の、この時の無念さを、兄が記憶していた。
炎天下のロード・レースで「精魂尽きて、生命の危険さえも感じ、棄権することを決断(選択)した」と言う事であった。
この様な異常な精神状態の最中(さなか)「差し伸べられた食べ物が、極上の思いがした」と言うことにつながるのである。
父の、鹿児島~大阪1000余Kmの壮大な自転車ロードレースへの挑戦は、鹿児島~熊本~門司の区間(記録上)をもって終焉することとなった。
しかし、この記事を通じ、考えさせられることがある。
何故・この様なロード・レースが計画され、実行されたのかと言う事である。
大会規約に「医学的見地で、体力的・食事・飲料・ユニホームに至る検証を実施する」との記述がある。
しかし、手元にある新聞記事の記録によってロード・レースが実在したこと、そして、父が参加していたと言う事実以外は、知る由もない。
私にとっては、父から聞かされていた「鹿児島から大阪までの自転車ロード・レース」の歴史的存在と、父が参加していた事実を聴覚だけでなく視覚(新聞記事)からも理解する結果となった。