ふくちゃんの絵日記

バイク等での旅行記や、日常生活で感じたことを、絵(写真)に描けるものは描き(添付)絵日記風にしたいと思います。

☆久し振りの帰省を果たして・・!

2014年09月23日 | 日記
 先週の土・日曜日に10ヶ月振りとなるであろうか、帰省を果たした。
 犬くん連れである。
 墓参に加え、姉が入院したとの連絡で見舞いが課題であった。
 入院はしているものの元気な姉の様子に接し、安心することが出来た。
 そして、気掛かりであった墓参もすることが出来た。
 土曜日の夜は、単身赴任中の甥(兄の長男)夫婦も交え、賑やかな夕食を頂いた。
 身も心もリフレッシュ出来た。
 この席で、父の鹿児島から大阪に至る自転車競技に関する「新聞記事」の存在について確認した。
 そして、帰宅に際し、母の”収集品”を預かって、整理する役目を仰せつかったのである。
 妹・曰く(日曜日に再会)「一番・暇なモノ(私)が整理したらええ!」と言い。
 姉(義姉)曰く「必要な時に(CDから)パソコンで観たらええ!便利でええなぁ!」と言う始末である。
 私の生前の時代の膨大な資料と、皆の期待を背負って、犬くんと帰宅したのである。
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☆時代を考える Part2

2014年09月23日 | 日記
 Photo
 母が残した父の記録記事(新聞記事)に面白いものを見付けた。
 先に日記とした「西日本サイクル・チーム・レース」に関するものである。
 西日本サイクル・チーム・レースに出場する県代表の三名を選別する予選会が、7月21日に開催されている。
 そして、一着所要時間を予想する”ゲーム”を主催者である「大阪毎日新聞社」が実施している。
 「応募総数は4,376票」であり、一着記録と一秒違いの予想をした人が商品である「自転車一台を獲得した」と言う記事の内容である。
 この時代の一般的な給与が約70円。 カレーライスやラーメンが約10銭であった様である。
 そして、自転車一台当たりの価格は、100円程度(70~200円という記録もある)していた様である。
 戦後に、私も関わる事になる、サイクル競技の娯楽性を垣間見ることが出来る。
 因みに、予選会の一着は父である。
 そして、父は鹿児島へと向うことになるのである。
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☆時代を考える

2014年09月23日 | 日記
 父が出場した「西日本サイクル・チーム・レース」の新聞記事から、興味をそそる記事が幾つかある。
 鹿児島市・照国神社でのスタートの様子を報ずる記述(写真の説明文)である。
 「号砲一発、スタートを切る=鹿児島照国神社前」と前文があり、続く文章に興味が湧いた。
 「鹿児島、太刀洗間大毎二十号機羽太飛行士、太刀洗、大阪間日本空輸会社萩野機空輸」とある。
 太刀洗は、福岡県に有った「旧陸軍航空基地」と思われる。
 鹿児島から福岡(太刀洗)まで、大阪毎日新聞社機が空輸し、福岡から大阪までは日本空輸会社機で空輸した事が記述されている。
 この記述の中で「日本空輸会社」というものが明確にならない。
 現在ある「日本空輸株式会社」の沿革には昭和30年創立とあるからである。
 現在ならディジタルカメラで撮影し、ネット経由で何処からでも送信出来る。
 確かに「写真電送機」は昭和天皇の即位時に設置された記録はあり、写真伝送機としては存在していた。
 しかし、当時の伝送路(電電公社の前身である逓信省時代)では品質(画質)の保障が出来なかったのであろう。
 伝送路もさることながら「接続(中継交換)」に接続を重ねなければならないことからも、不可能であったものと推測する。
 29日午前7時のスタートを撮影した「フィルム」を鹿児島から大阪本社までリレーで空輸し、翌日の朝刊で報じている。
 フィルムから写真に焼付け、写真製版化(鉛板に焼付け)して新聞として印刷。
 地方版となれば、輸送しなくてはならないだろう。
 もしも、大阪から四国方面に輸送するとなれば、海路となり、定期旅客船の最終便までという制約も、あるだろう。
 この様に考察すると、新聞社の努力が理解出来る。
 それにしても「フィルムの輸送方法が新聞記事になる時代であったのだ!」と気付かされた。
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