旧:鳳凰堂のランダムウォーカー <伏見の光>

2019.4.22以降、新規の主要な記事は新サイト「fusiminohikaru.net」
で書いています。 

御香宮(1) -安土桃山~江戸の空気-

2011-10-30 21:34:45 | インターネット・パソコン・デジカメ
 アシックスのシューズショップへ行ったついでに御香宮に寄ってきました。

 ここの境内は一時預かりの駐車場にも使われているので、車をとめるためだけにも使ったりします。

 南側にある表門の方から境内に入ります。





 この門は伏見城の大手門を移築したとのこと。伏見城は秀吉の城ですね。現在ある鉄筋コンクリートの伏見城は位置が少し実際にあった場所とは違うようです。




表門を入ってすぐ右側には天満宮が。菅原道真がまつられているというもの。


牛さんがいたりしますが・・・。


ほんとにいるのは猫さんだったりします。




神社のことはここにわかりやすく整理されています。


神社のサイトはこちら。


主祭神を神功皇后ということなのですが、神社の境内に別の神社があり、様々な祠があり。このあたりがおもしろいです。



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白州

2011-10-30 21:07:10 | その他
 これはなにかというと、ウィスキーの小さい瓶をスキャナにかけて、あと、ちっょと補正したものです。


 これですね。


 ウィスキーなど日頃はほとんど飲まないのですが・・・。

 山崎の蒸留所は2回行きましたが、白州の方も行ってみたいです。中央自動車道「小淵沢IC」より車で約15分
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「重症児の授業づくり」5

2011-10-30 18:47:22 | 株式投資・資産運用
 また、本の内容からどんどんそれていってしまうのだけれど、重度の子どもの場合、実は、家庭におけるよりも、ある一定時間という区切りであれば、一番じっと丁寧に子どものことを見ることができるのは、その子の担任だったりする場合があります。家庭では、ずっと子どもについてその様子を観察しているわけにはいかない、様々なしなければいけない家事全般があります。学校では、子どものことをしっかり見ること自体が、教員の基本的な仕事
(もちろん、それだけではないので、ずっとじっと子どもの様子を見てばかりもいられませんが)の中心です。

 だから、その子、その人の人生のある一時期においては、学校の教員が最もその子の細かい具体的な実態がわかっている、そういうことはありえるわけで、そうだとしたら、その実態、特徴、課題、配慮点などについて、彼・彼女に関係する人で共通理解を得られるような提起を学校側からすることは、学校としての「責務」かもしれないと思います。

 話を元に戻すと、まず大事なことは、子どもたちにがちらの意図したはたらきかけの内容を、できれば心地よい形でうけとめることです。

 それが一定できたら、まあ、日によって、それはもう完全に寝てたり緊張しまくりだったり、いろんなことでできない日もあったりすると思いますが、そういう日ばかりではない、できる日、受け止められる日もある、となったら、
次は「感じ分ける」ことができるようになってほしい。これは、もう感覚的なものでかまわないので。

 「二色の世界」というような言われ方が時々しますが。つまりは、感覚的に違いがわかる。

 例えば、「暖かい-冷たい」「堅い-柔らかい」「甘い-酸っぱい」「動いている-止まっている」、そういう違いが感覚的にとらえられる。できれば、その変化していく過程もとらえられる。例えば「だんだん揺れが大きくなる」とか、「動く-止まる-動く-止まる」とか。

 そういう、感覚的な感じ分け、そういう力を発揮する、あるいは、育つ、広がるといいです。

 で、こういう経験を繰り返す中で、だんだんと「選択的指向性」のようなものが育ってくるといいなと思うのです。

 それは「それではなくて、これが好き」「あれではなくて、これが楽しい」といった、自分の指向性と関わった選択する力ですね。

 つまり、ここでは、単に感覚的に感じ分けるだけではない、自分の意志とか気持ちとか、そういうのものがだんだんと育って広がってくるといいと思うわけです。

 だから、このことを単純化していうと、まず

「受け止めることから感じ分けることへの感覚の育ち」

 があり、それらを繰り返し積み重ねる中で

「感覚的感じ分けから認識をくぐった選択的指向性へ」

の力を育みたいということになるわけです。

 「これが好き!」、反対に言うと「あれは嫌!」。最重度の子どもたちと一緒に勉強する中で、多くの子どもらの死に直面してきました。そのでの印象として言うならば、こうした「これが好き!」「これは嫌!」の力が育っている子ども、そういう力を持っている子どもは、命そのものの力も強いような感じがします。

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「重症児の授業づくり」4

2011-10-30 14:01:56 | その他
 本の内容からどんどんそれていってしまっていますが・・・。

 ちょっと関連づけて戻すと、本の中で紹介されているナッちゃんついて『「目の前にないものを心の中に思い描く力」は確かにあったように思います』と書いてあります。で、これが一歳半の力だというわけです。

 つまり、この子の場合は、こういうわかり方、大げさに言えば世界のとらえ方をしているということになるんでしょう。

 これとちょっと関わるようなこと。

 前の前の学校では、「」つきの教科について、障害の視点も含めつつ、それぞれの教科における指導のねらいの系統性というのはどのようなものか、それを具体的に文章としてあげながら整理していくという取組をしました。これが、多分もう15年ぐらい前になるのかな。

 その中で、どの教科の授業であっても、結局のところ、ベースのところで大事にするねらいというのは「わかる」ということだなと。それぞれの教科、あるいはそれぞれの発達段階において「わかる」ということはあるし、それを追求していく、わかる取組をする、わかるようになる取組をすることが授業の本質の一つなんだということを論議した記憶があります。私はこれを「わかるベース論」という名前をつけていました。

 で、そのわかり方というのは、単純化して考えたらどういうことになるのかと。

 まず、とにかく、はたらきかけを感じ取ってもらわないとしょうがないわけです。

 授業の中での様々なはたらきかけは、「刺激」という言葉で表現される場合がありますが、私はこの言葉は好みません。

 「刺激」というと、何かしら「針でツンツンする」というようなイメージがあることと(自分はね)、あと、刺激というのは意図的なものも意図的でないものもある。
授業における刺激というのは、これはこちらが意図をもって取り組んでいることが中心となるわけだから、そういう意味で、人の意図が含まれた「はたらきかけ」の方が言葉として適当ではないかと思うので、「はたらきかけ」という言葉を使うことが多い、

 だから、ます最初の段階として、「はたらきかけをうけとめる」ということがある。できれば、これは心地よく受け止めほしい。多少は、心地よくないようなものも含んでもいいかと思いますが、中心的にはやはり心地よい、楽しいはたらきかけで。

 これは見ること、聞くこと、さわること、体の動きを感じ取ること、いずれについてもそうです。あと、味とかにおいとか、そういうことも含まれますね。

 まず、受け止めると。深く寝ていて、いろいろなことをしても全然反応がないと・・。ということだと、これは成功しているとは言えない。だったら、やっぱり起きて、はたらきかけを受け止められる条件そのものを整えましょうと。まず、そういうところが課題となる子どもらもいます。

 とにかくやたらと緊張が強くて、落ち着いてはたらきかけを受け止めることができないと。だったら、そこのところ、緊張を緩和してやったりとすごせるようになってほしいなと、あるいは、てんかん発作が多くて、発作のあとは寝たりぼんやりしたりしてしまう。だったら、投薬等の調整で、うまく発作をコントロールできないか。

 こうした「体調を整える」こと自体が、ます゜基本的な課題になる子どもたちがいます。

 これは、学校教育としての課題なのかどうか。それよりもむしろ、医療の課題なのではないか。しかし、そのこと、体調を整えることが、子どもにとっての教育活動の前提になるのであればそこのところについて、できることは学校教育としても当然するべきではあります。

 例えば、睡眠・覚醒の状態の記録、起こしてもいいかなと思う時は覚醒を促すようなはたらきかけをする、発作の頻度とかその内容などをなるべく正確に、できれば動画などでも記録をする、そうした様々なことを通して、子どもの今の体調とか課題について、保護者、主治医、その他関係諸機関の人と共通理解、コンセンサスをつくっておく、そういうことがまず大事で課題になる子どもたちがいます。


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「重症児の授業づくり」3

2011-10-30 12:56:22 | その他
 この1章の冒頭の部分で『「ふれる・えがく・つくる」の学習で』という記述が出てきます。
 さて、この区分、言い方というのも学校ごとに色々と違いがあり、この教育課程論に入っていくと、なかなか共通の土台で整理をした上での議論が成立しにくいところがあります。

 学習指導要領との関係でいえば、重度の子どもたちの教育課程は、私自身はそのほとんどは「自立活動」として整理してよいと考えています。

 「自立活動」も、重度の子どもたちにとっては、運動機能面だけでなく、多様な内容、領域を含んでいます。学習形態の如何によらず、その指導のねらいからいえば、子どもたちに対する取組のほとんどは「自立活動」として整理できるものと考えています。

 「あそびの指導」であるとか「生活単元学習」という区分は、私自身の考えでいえば、それは、発達段階的には幼児期以降のところでわかりやすい形で成立しやすいため、そのような区分も可能かと思いますが、1歳半未満の発達段階のところでは、むしろ、「自立活動」として整理した方があてはまりやすいように思われます。

 また、「学習指導要領上は自立活動である」と整理してしまうことにより、この部分で、この時間は学習指導要領上はどの区分なのか等と考える必要がなくなり、単純にとらえることができるというメリットもあります。

 まあ、この「学習指導要領上の位置づけをどう整理するか」ということは、さして重要な問題ではありません。

 もとに戻って、学校における、授業時間の区分とか整理についてですが、

 例えば、現任校では基礎的な学習集団において一定期間継続的に取り組まれるクラスの中心的な授業は、これを「テーマ学習」という名称で呼んでいます。これと比較的似ているように思われるのが前任校の「課題学習」です。

 さらにその前の学校では本書にあるような「みる・きく・はなす」「ふれる・えがく・つくる」「からだ」「うた・リズム」といった区分をしていました。
 
 それぞれの学校で、それぞれのハード、ソフトの条件や子どもたちの実態の中で検討されてきた内容で、これらを「これがいい」と単純に一つの形に統合することは難しいです。また、のようにする必要性や意味もあまりないように思います。

 また、名称が異なっていたり整理の仕方の視点が異なっていたりしても、実際の授業を見ると、それはさほど大きく変わりがない、ほとんど同じように見えることが多いです。

 ただ、例えば、授業を「課題学習」として整理するのと「みる・きく・はなす」として整理するのとがどう違うかといえば、私自身の感覚でいえば、それは指導者の側でのねらいの意識の仕方が異なるように思うのです。

 「課題学習」とした場合は、どの授業、学習、異なった単元であっても、共通して意識される基本的なねらいがまず大切にされる、意識されるように思います。それはクラスの教育目標であったり、個々の子どもらの個別の指導計画における中心的な課題やねらいであったりします。その上で、年間の学習内容としてどのようにバランスをとって、多様な内容を適切に配分するかという点にも留意するという形、発想となる。

 これに対して、あらかじめ「教科」、これは一般的なな教科ということでなく、重度の障害のある子どもたちにも教科の視点は重要であるという視点から整理した「」つきの「教科」ですが、を設定し、例えば「みる・きく・はなす」の授業という設定をする場合、それは視覚とか聴覚、見ることや聞くこと、そうした学習活動や場面の設定、それに即したねらいというのをまず考える、当然それは子どもらの実態に合った形で考えるのだから、子どもの中心的な課題とかクラスの教育目標につながってはいくのですが、まず最初の発想としては、学習活動とか場面をその整理された「教科」の視点から考えるということになるのではないかと思います。

 どちらも大差がないといえば結果的にはそうかもしれないですが、前者の方がどちらかといえば、中心的な学習活動は当然設定されるにしても内容は総合的なものとなり、後者の方は、特定の学習活動のみで授業が設定されることはないにしろ、それが授業の中心的な内容となる比率が高くなるように感じられます。

 ところで、重度の子どもたちに「教科」の授業を設定する際に、なぜ「みる・きく・はなす」等の「教科」を設定したのかということについて、かつて先輩の先生から、以下のような話を聞いたことがあります。

 それは、重度の子どもたちにとっての「教科」の設定というのは、人としての人格の完成を目指したもの、それと関わりがあることを体系的に整理しようとした発想があるのだということです。

 どういうことかというと、人が人であるには、人としての特徴を備えていることになるが、それは「言葉」「直立二足歩」「道具の使用」だというわけです。

 重度の障害のある子どもたちは、直接にはこれらのことは、現状の教育とか医療の中では達成できないことも多い。例えば、肢体不自由の障害が重度で自分で姿勢変換することが困難んな子どもが、いきなり二足歩行できるということはありません。そうであっても、様々な制約が現実にあっても、それに合わせた形で人が人である特徴に即した形での学習内容というのは体系的に整理できるのではないか、そうするののがよいではないかということから「」つきの「教科」という発想が生まれたと。

 例えば「からだ」は直立二足歩行へと連なる、「みる・きく・はなす」は、言葉によるコミュニケーションにつながる、「ふれる・えがく・つくる」は手指の操作とか道具の使用につながる、そういう教育内容として整理するのがよい、そしてそれはそれぞれ、人間がつくってきた文化というものにつながっていくのだと、そういう発想からの整理がされてきた。

 では、「うた・リズム」はどうなのかというと、これはちょっと視点が違って、そうした特徴がある人間がつくってきた文化の具体的な現れというか活動が音楽なんだと。で、そういう音楽文化を受け継いでいくことが、やはり教育の一つの大切な要素なんだと、そういうこととして考えられたものだということなのです。




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