世界遺産・あまくさ。「潜伏キリシタン」と「隠れキリシタン」の違い。
天草・崎津集落が世界文化遺産に登録されました。
潜伏キリシタン関連遺産だそうです。
『2世紀以上にわたる禁教下で信仰を継続した独特の宗教的伝統を物語る、他に類を見ない証拠』。
で、潜伏キリシタン関連遺産として世界文化遺産に登録されました。
さて、さて、 潜伏キリシタン? 隠れキリシタン? 意味が違うようです。
織田信長が布教を認めたキリスト教を、豊臣秀吉が禁止しました。
まず、1587年に禁教令(バテレン追放令)を出しました。
1596年に再び禁教令を出し、キリスト教徒たちを捕らえて処刑しました。(日本二十六聖人)です。
その後、江戸幕府は、1612年と1613年にキリスト教禁止令を出し、厳しくキリシタンを取り締まりました。
この頃のことが、遠藤周作氏の”沈黙”に出てきます。
キリシタン弾圧の「穴吊るし」があります。穴吊るしは、深さ2メートル程の穴に逆さ吊りにされる拷問です。
穴から出た足しか見えず、耳やこめかみに血抜き用の穴が開けられ簡単に死ぬことはできず、
それでいて棄教の意思表示は容易にできるという非常にきつい拷問です。
1633年10月18日、この拷問によって指導者のクリストヴァン・フェレイラが棄教し、
カトリック教会に大きな衝撃を与えたそうです。
さて、さて、話は、潜伏キリシタンと隠れキリシタンの違いでした。
まず、今回の「潜伏キリシタン」とは、禁教令が出た後も表面的には仏教徒を装いながら、
キリシタンであることを隠し続けた人々のことです。
キリスト教徒であることは捨てませんでした。
潜伏キリシタンは、指導者が一人もいない中、禁教が解かれるまでの約230年間、信仰を守り続けました。
江戸時代は、生きるために仏教徒であることを表向きは受け入れざるを得ませんでした。
表向きは仏教徒でしたが、心の中はキリスト教徒でした。
一方、「隠れキリシタン」も仏教徒を装っていた点では「潜伏キリシタン」と同じですが、
1873年(明治6年)に禁教令が撤廃された後も、キリスト教会に戻ることもなく、独自の信仰形態を続けました。
「独自の信仰形態」とは、
「隠れキリシタン」の人々は、こっそりと信仰を続けているうちに、日本民俗信仰の影響を受け、
キリスト教とは全く違う重層信仰、祖先崇拝、現世利益、
儀礼主義的傾向の日本独自の宗教になってしまいました。
つまり、潜伏キリシタンはキリスト教徒ですが、
隠れキリシタンは、キリスト教から派生した日本独特の宗教で、協会には行きません。
キリスト協会には行きませんから、キリスト教徒ではありません。
キリスト教徒ではありませんが、隠れキリシタンと言うそうです。
違いが分かったようで、良く分かりませね。
なにしろ、日本には八百万神(やおよろずのかみ)の神様が居られますから。
穴吊りは、この時代最も過酷な拷問と言われた。
その内容は、1メートルほどの穴の中に逆さに吊す、というものであったが、そのやり方は残酷極まりない。
吊す際、体をぐるぐる巻きにして内蔵が下がらないようにする。
すると頭に血が集まるので、こめかみに小さな穴を開け血を抜く、などそう簡単に死なないようにし、
さらに穴の中に汚物を入れ、地上で騒がしい音を立て、精神を苛んだ。
(出典「日本キリシタン殉教史」片山弥吉・著 時事通信社)。