唐松林の中に小屋を建て、晴れた日には畑を耕し雨の日にはセロを弾いて暮したい、そんな郷秋の気ままな独り言。
郷秋<Gauche>の独り言
ぞっとしたくなる
「ジャバ島にも、やがて農業が持ち込まれることと思うと、私は『ぞっとしたくなる』。小鳥に巣を作ってやるように、螢にもどこか楽園を計画してやれないものか?」
毎週土曜日の神奈川新聞に、大佛次郎がかつて神奈川新聞に掲載したエッセーが当時のまま再掲されています。昭和の文豪が書いたもの故、間違っていようもないのだけれど、53年後に読むと今では使わないような言葉や言い回しも散見され面白いのです。
今日は1962(昭和37)年6月26日に掲載された「ほたる」と題されたエッセイ。上に引用したのはその中の一部で、日本では開発や農薬の使用により余り蛍を見なくなったが、ジャバ島でもやがて蛍が見られなくなるのではないかと云う文脈の中に出て来ます。
「ぞっとしたくなる」。ぞっとする、ぞっとしないと云う表現はありますが、ぞっと「したくなる」は初めてお目にかかる表現です。「ぞっとする」は、寒気がする程の恐怖を覚えること、また「ぞっとしない」は面白くない、感心しないと云う意味ですね。では「ぞっとしたくなる」は? 難解ですがあえて云うならば、やがて「ぞっとする」ような状況になるのではないか、程の意味でしょうか。あるいは素直に「ぞっとする」と書けば良いものを、あえて素人が使わないような表現を使ってみたのか、あるいは大佛次郎が考え出したオリジナルな表現であったのか。
毎回読んでいると、昭和時代中頃は今とこれ程違っていたのか、昭和は遠くなりにけりとつくづく感じます。昭和とひと口で云っても最後期の63年頃は、携帯電話とインターネットの普及が緒に付いたばかりであったことを除けば今とは差して変わりがなかったように感じます。一方30年代前半は明らかに今とは違っていたような気がします。その境目は実にはっきりしており、それは東京オリンピックが開催された1964年、昭和39年であったように私には思えるのですが、こんなことを書けるほどの年月を生きて来てしまったことにあらためて気づかされたりもする、53年前のエッセイです。
例によって記事本文とは何の関係もない今日の一枚は、藪萱草(やぶかんぞう)。似た花に一重咲きの野萱草(のかんぞう)があります。