猫じじいのブログ

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自殺した彼女に思う、「悔い改め」の誤訳

2019-04-04 19:35:36 | 誤訳の聖書


新約聖書の日本語訳に「悔い改め」がやたらと出てくるが、これは、
山浦玄嗣や佐藤研が言うように、誤訳である。

もとのギリシア語は、動詞で“μετανοέω”、名詞で“μετάνοια”である。
“μετα”は「別に」という意味で、“νοέω”は「思う」という意味だから、「思いを変える」あるいは「考えを変える」という意味になる。
どこにも、「悔いる」という意味が含まれない。

この語を、山浦玄嗣は「こころを切りかえる」と訳し、佐藤研は「回心する」と訳す。

たとえば、マルコ福音書1章15節のギリシア語原文

πεπλήρωται ὁ καιρὸς καὶ ἤγγικεν ἡ βασιλεία τοῦ θεοῦ· μετανοεῖτε καὶ πιστεύετε ἐν τῶ εὐαγγελίῳ.

は、新共同訳の「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」ではなく、

「時は満ちた、神の統治が近づいた。考えを変え、福音を信じよ」

と訳さないといけない。

なぜこのようなことをわざわざ言うかというと、現在のキリスト教に、教化=「教会(長老)が信者を導く」の考えが、いまだに残っており、新約聖書の訳が改善されないからだ。
カトリックには「懺悔」という習慣があり、プロテスタント改革派には「罪の告白」を毎日曜日全員で唱える。

じつは、私の高校、大学、大学院の同級生で、子供を持ちながらアパートの一室で自死した女性がいる。

彼女は、神様とお話しができることがある、と私に言っていた。父が厳しい人で、何もほめてくれず、人間は生まれながら罪があると言われて育ったとも言っていた。最近、私は、故郷に帰ったとき、彼女が通った教会がどこにあるか知った。戦後の満州からの引揚者のために作られた新しい街の一画にある、キリスト教改革派の教会である。現在のこの教会のwebサイトを見ても厳しい言葉にあふれている。

引揚者にはすざましい体験があって、自分を責めまくる傾向にあったのではないかと思う。結果として、子供(私の同級生)が罪の意識にとらわれ、自死を選択したのではないかと思う。

「悔い改め」や「罪の告白」は、生きていくのには、不要だ。
宗教の大事な役割は人を慰め、苦しみを和らげ、生きる意欲を与えることだ。
もちろん、苦しみの原因には、今の社会に原因があるのだから、政治での解決が必要である。
しかし、そのまえに、生きる意欲と人への信頼を取り戻す必要がある。

福音はあくまで「良い知らせ」であり、生きよというメッセージである。ここで、新約聖書の翻訳は大事であり、まちがっていれば、福音が不幸の手紙になってしまう。

[参考図書]
佐藤研、小林稔訳:「新約聖書福音書」岩波書店、ISBN:4-00-023310-6 (1996.11)
山浦玄嗣:「イエスの言葉、ケセン語訳」文春新書839、文藝春秋 ISBN: 4166608398 (2011.12)