一週間前、4月7日前の朝日新聞の〔フォーラム〕に『インクルーシブ教育』の特集があった。
これは、障害の有無にかかわらず、ともに学ぶことをいうらしい。2006年に国連で採択された「障害者の権利に関する条約」にその考えが盛り込まれているという。
文部科学省が2012年に「インクルーシブ教育」の方向性を打ち出し、翌年に、特別支援学校に進むのが原則だったのを、本人や保護者の意見を尊重しつつ、一般の小中学校と合わせて総合的に判断することとした、と新聞に書かれていた。
意味がわからない。本当なのか。
というのは、私のNPOに、そのことで、公立の小学校、中学校で争った親がいるからだ。その男の子は、こころに傷をもちながら、ことし、私立の高校を卒業した。
公立の小学校、中学校では、教育の効率を重視し、手間のかかる子を排除しようとする。
私のNPOは、排除された子どもたちの受け皿で、こころのケアとともに、勉強を教えている。
子どもが特別支援級に入れられると、そこから抜け出るのが難しくなる。普通の勉強が教えられないからだ。
日本の教育制度には、やり直しがきかない。敗者復活の道がない。
私と同僚は、昨年、大変な努力をして、特別支援級の子を公立の定時制高校にいれた。友だちが初めてできて、高校がとても楽しいと言う。
私の担当した子どもに、また、漢字の音読みができない女の子がいた。「山脈」とか「平野」とかが読めない。漢字を書かすと、横線の数が多かったり、少なかったりする。
その子が、中学になって、普通級に通いたいと私に訴えた。作文を書かすと、どんどん書き出す、「自分がある子」だった。
その子は、自分が可愛くて男の子に人気があるので、普通級の女の子にいじめられるのだという。
私は親にその訴えを伝えた。私立中学校に移り、その子は幸せになっている。
お金で子どもの幸せが買えるのが、現実である。
政府が「インクルーシブ教育」を唱えるなら、本気でやってほしい。
排除された子どもたちは、勉強だけでなく、友達を作るのが下手になる。
政府や自治体や学校が、子どもを特別支援学校にやるか否かを、決めるのは間違っている。障害者が、そうでもない者と同じく、ともに教育を受けられるように、環境を整えるのが、政府や自治体や学校の仕事である。
「尊重しつつ」とは、サービスを行う政府・自治体・学校に「決める権利」を留保した法律上の表現である。間違っている。
8年前、私は足の裏を怪我した。3か月ほど、松葉杖で歩く身になった。私が教えていた大学には、本部にしかエレベータがなかった。そこから2階にあがって、渡り廊下を長々歩いて、教室に行くしかなかった。
小学校や中学校や高校や大学校は、車椅子で移動できるようにすべきである。
iPadやデジカメなどIT機器の持ち込みを許すべきだ。
子どもたちの「板書」など不要にすべきだ。
それが「インクルーシブ教育」である。