猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

私の愛すべき子供たち、インクルーシブ教育から排除されて

2019-04-13 19:51:23 | 愛すべき子どもたち


一週間前、4月7日前の朝日新聞の〔フォーラム〕に『インクルーシブ教育』の特集があった。
これは、障害の有無にかかわらず、ともに学ぶことをいうらしい。2006年に国連で採択された「障害者の権利に関する条約」にその考えが盛り込まれているという。

文部科学省が2012年に「インクルーシブ教育」の方向性を打ち出し、翌年に、特別支援学校に進むのが原則だったのを、本人や保護者の意見を尊重しつつ、一般の小中学校と合わせて総合的に判断することとした、と新聞に書かれていた。

意味がわからない。本当なのか。

というのは、私のNPOに、そのことで、公立の小学校、中学校で争った親がいるからだ。その男の子は、こころに傷をもちながら、ことし、私立の高校を卒業した。

公立の小学校、中学校では、教育の効率を重視し、手間のかかる子を排除しようとする。
私のNPOは、排除された子どもたちの受け皿で、こころのケアとともに、勉強を教えている。

子どもが特別支援級に入れられると、そこから抜け出るのが難しくなる。普通の勉強が教えられないからだ。
日本の教育制度には、やり直しがきかない。敗者復活の道がない。
私と同僚は、昨年、大変な努力をして、特別支援級の子を公立の定時制高校にいれた。友だちが初めてできて、高校がとても楽しいと言う。

私の担当した子どもに、また、漢字の音読みができない女の子がいた。「山脈」とか「平野」とかが読めない。漢字を書かすと、横線の数が多かったり、少なかったりする。
その子が、中学になって、普通級に通いたいと私に訴えた。作文を書かすと、どんどん書き出す、「自分がある子」だった。
その子は、自分が可愛くて男の子に人気があるので、普通級の女の子にいじめられるのだという。
私は親にその訴えを伝えた。私立中学校に移り、その子は幸せになっている。

お金で子どもの幸せが買えるのが、現実である。

政府が「インクルーシブ教育」を唱えるなら、本気でやってほしい。
排除された子どもたちは、勉強だけでなく、友達を作るのが下手になる。

政府や自治体や学校が、子どもを特別支援学校にやるか否かを、決めるのは間違っている。障害者が、そうでもない者と同じく、ともに教育を受けられるように、環境を整えるのが、政府や自治体や学校の仕事である。
「尊重しつつ」とは、サービスを行う政府・自治体・学校に「決める権利」を留保した法律上の表現である。間違っている。

8年前、私は足の裏を怪我した。3か月ほど、松葉杖で歩く身になった。私が教えていた大学には、本部にしかエレベータがなかった。そこから2階にあがって、渡り廊下を長々歩いて、教室に行くしかなかった。

小学校や中学校や高校や大学校は、車椅子で移動できるようにすべきである。
iPadやデジカメなどIT機器の持ち込みを許すべきだ。
子どもたちの「板書」など不要にすべきだ。
それが「インクルーシブ教育」である。

日本語聖書の「国民」「異邦人」は誤訳、エトノスとエトネー

2019-04-13 10:48:28 | 誤訳の聖書


ギリシア語にエトノスという言葉がある。
新約聖書の新共同訳では、単数形のἔθνος(エトノス)を「民」「民族」「人々」「国民」「国」「同胞」「ユダヤ人」「国の人」、その複数形ἔθνη(エトネー)を「異邦人」「諸国の民」「諸民族」と訳している。

似たような言葉にλαός(ラオス)という言葉がある。これも複数形がある。

エトノスもラオスも、日本語に訳しにくい言葉である。原因は、日本語に複数形や集合名詞がないためである。

日本語で複数形をつくるとき、「山々」や「花々」や「人々」のように、名詞を繰り返すか、「友だち」や「子供たち」のように「たち」を加えるか、「友ら」や「子供ら」のように「ら」を加えるしかない。

しかし、エトノスやラオス集合名詞である。どちらも、人間の集団をさす。しかも、この集合名詞は、複数形をとりうる。集団が複数あるわけだ。
集合名詞の複数形には、日本語はお手上げである。

旧約聖書はヘブライ語聖書とギリシア語聖書とがある。この両者を比較すると、ギリシア語のエトノスは、多くの場合、ヘブライ語のゴイー(גוי)やウーマー(אמה)に対応し、ギリシア語のラオスは、ヘブライ語のアーム(עם)やレオム(לאם)に対応する。

エトノスは、集団の各自が、自分たちが他の集団と異なると意識するような集団のことである。たとえば、同じ王のもとにいるとか、同じ神様を礼拝しているとか、同じ訛りの言葉を使っているとかである。
関西弁を話す人たちも、東北弁を話す人たちも、それぞれ、エトノスで、合わせて、エトネーとなる。

ラオスは、エトノスと違って、他の集団と異なるということが強調されない。ヘブライ語のアームは「人々」という軽い意味である。しかも、その複数形も、聖書で使われる。

新共同訳『マタイ福音書』4章15節に「異邦人のガリラヤ(γαλιλαία τῶν ἐθνῶν)」と言う言葉がある。口語訳も、昨年12月にでた聖書協会共同訳も、「異邦人の」となっている。これはまずい。

英語訳聖書では、古くは“of the gentiles”、最近では“of the nations”になっている。
“gentile”はラテン語に起源をもち、「同一部族に属する」の意味である。“nation”は「国民」という意味である。

『マタイ福音書』のこの節は、『イザヤ書』8章23節を引いている。イエスがガリラヤのナザレ出身であることに関連して、引用している。

「異邦人の」と訳すると、「ユダヤ人でない人たちの」の意味が強調される。
すると、イエスが「非ユダヤ人」だ、とも聞こえてしまう。
80年前のナチス時代の教会関係者には、イエスが「アーリア人」だと主張する者がいたが、これは間違いである。

本来のここの意味は、「諸国民の」である。
ガリラヤは諸国のはざまで、色々な国の出身者が住んでいた、という意味である。
アッシリア帝国の侵略、アレクサンダー大王の遠征、ローマ帝国の属州化で、中東沿岸部の各地域に諸国民の出身者がモザイク状に住むようになった。
イエスの時代には、ユダヤ人で固められた宗教都市エルサレムのほうが、特殊であったのだ。

文化的に異なる人たちが、同じ地域に住むということは、化学反応が起きるかのように、新しい文化が起きることだ。
イエスは、実際、ギリシアやローマ風の慣習、思考形式を受け入れた。ヘブライ語聖書に由来する食べ物の忌避や安息日などを無視した。イエスは、当時のユダヤ民族主義者とたもとを分かった。
パレスチナの隣のシリアには、ストア主義の哲学者が続出した。
支配され虐げられた者たちには、愛国は「重荷」でしかない。世界市民になるのである。

たしかに、ギリシア語のἔθνος(エトノス)は訳しにくい言葉である。
「民族」では重々しすぎる。「国民」では、諸国が壊れ、ローマ帝国の属州化された状況では、不適切である。
その複数形を「異邦人」と訳するのは、完全に間違いである。