エピクロス学派も初期のストア主義者も原子論者であった、とバートランド・ラッセルは『西洋哲学史』(みすず書房)で言う。
彼らは、現代の科学者と同じく、人間も含めて生き物を自律的に動く機械だと考えた。魂も、原子からできているとした。
このとき、「自由意志」と「決定論」の対立が起きる。未来が過去によって正確に規定されるなら、意志を持つことが無意味なように見えるからだ。
では、人間だけが特別なのか。
「自由意志」と「決定論(機械論)」の対立は、現代でも、なお、解決していない。
エピクロスは、「自由意志」を肯定するために、「絶対的決定論」を「確率的決定論」に修正した。
ストア主義の創始者ゼノンは、この対立に、深入りしなかった。彼は、形而上学をもともと嫌い、実用的なことに専念した。
近代になると、哲学者デカルトは、人間以外の生物を機械論的に捉えた。しかし、人間に関しては、「自由意志」の問題を解決するために、「われ思うゆえに、われあり」とし、脳の中の松果体に、「魂」があるとした。このため、デカルトは二元論者と言われる。しかし、この点を除けば、彼は、人間をも機械論的に捉えた。
現代科学では、「魂」も、神経細胞で構成される脳システムの機能である。神経細胞は、無機物と共通の元素の原子からつくられる、化学物質にすぎない。
この意味で、現代科学でも、「魂」は原子から成り立つ。
死によって脳システムは壊れるがゆえに、機能の「魂」は不滅ではない。
20世紀初頭に量子力学(quantum mechanics)が生まれたとき、因果律が決定論的でなく、確率的であると考える哲学者が出てきた。
しかし、ニールス・ボーアやヴェルナー・ハイゼンベルグのように因果律が確率的と解釈するのは、科学的には誤りであろう。
ボーアは電子が粒子だということに固執しため、確率的因果関係という概念を導入することになった。
例えば、ボーアは原子核の崩壊でエネルギー保存は確率的にしか成り立たないと考えた。実際には、ニュートリノが観測されていなかっただけで、エネルギー保存は正確に成り立っていると、現在は考えられている。
量子力学では、現在の量子状態を正確に知ることは、現実的に困難なので、実用的には、未来を確率的に予測するしかないというのが、真相に近い。
いっぽう、最近の脳科学では、神経細胞間の興奮伝達が確率的であることが、わかってきた。非常に面白い知見だと思う。
しかし、因果律が確率的だとしても、脳システムが確率的だとしても、未来の予測が確率的というだけで、「自由意志」の存在の説明にはならない。
自由意志は、しばらく、解決できない問題であろう。しかし、「自由意志」があると思うほうが、生きる元気が湧いてくる。