NPOで子どもたちを指導していると、なぜ、この子たちが通級に通うのか、個別級に行くのか、わからないことがよくある。そこで、ちゃんとした、この子たちのための教育がなされれば、まだ、納得できるが、実際には、そうではなく、将来の社会参加の在り方をせばめる。だから、心苦しいのだ。
これは、わたしだけでなく、同じNPOで働くものの共通の思いである。
先週、面談で、「どうして僕は通級にいくの」と子どもに訴えられた、と親が言った。わたしも、そう思うので、親にたずねたら、「うちは母子家庭だから貧乏なの、ただで心の面倒を見てもらえるから通級を望んだの」ということだった。
わたしは、実は、その子と話すのがとても楽しい。好奇心が強く、非常に物事にこだわる。質問が鋭い。独創的である。その子の夢は、工業高校にはいって、エンジニアになり、みんなを助ける機械を発明することだと言う。
もともと、学校教育法にもとづき、障害をもった子どもたちのため、盲学校・聾学校・養護学校などの特別支援学校がつくられた。養護学校は、視覚、聴覚以外の障害をもった子どもたちのための学校で、「精神薄弱、肢体不自由、身体虚弱などの児童・生徒の特殊教育」の学校である。
わたし自身は、「肢体不自由、身体虚弱」などの子どもたちを他から隔離して、別の学校に入れる理由がわからない。普通の学校は、別に「軍人」を育てるところではないから、肉体的障害を理由に、「健常者」と分け隔てて教育する必要はない。
文部科学省用語の「精神薄弱」は、現在では差別用語で、「知的能力障害」に置き換えた方が良い。「知的能力障害」といっても、「特別支援学校高等部」にいく「軽度の知的障害」の子どもたちには、わたしは、隔離が必要なほどの障害を感じない。
いっぽうで、文部科学省がインクルーシブ教育を唱えている、ことを最近知った。整合性はどうなっているのだろう。
わたしは、公教育では、できる限りインクルーシブであるべきだ、と思う。
必要なのは「隔離」ではなく、「配慮」である。例えば、車椅子で教室に入れるようにすべきである。車いすで校内を移動できるようにすべきである。
2004年に発達障害者支援法が成立し、文部科学省は、「自閉症」「情緒障害」「学習障害」「注意欠陥多動性障害」の児童に「特殊教育」を拡大し、各学校に特別支援学級の設置を通達した。
横浜市では、これらを「通級」「個別級」と呼んでいる。「普通級」とは「特殊教育」でない授業のことである。
「個別級」とは、子どもたちは、同じ学校に通うが、「普通級」の生徒から隔離され、「個別級」の教室で、全授業を受けることをいう。「普通級」とまったく異なった教育が担当教師の責任でなされる。多くの中学校の「個別級」では、義務教育にもかかわらず、教科書の配布すらない。
「通級」は、ふだんは「普通級」で授業を受け、週に何回か、特定の曜日の午後、「普通級」の生徒から隔離され、「特殊教育」を受けることをいう。横浜市では、「通級」の設置されている小、中学校は少ないので、離れている学校に通うことになる。
「特殊教育」とは、何なのか、さっぱりわからない。わたしが見る限り、法律で「発達障害」とされる子どもたちの多くは、平均的でなく、個性あふれる子どもたちである。すなわち、多様であるから、マニュアル化できるような「特殊教育」なんて、ありえない。
平均的な子どもたちの学習を邪魔しないように、手間のかかる子どもたちを隔離しているだけのように思える。
具体的に話すと、通級に通う その子は、通級の先生には満足している。話をきいてくれ、信用している。
不満は、通級に通うため、その時間、ほかの子どもたちが受けている授業に参加できず、英数国などの教科に、自分だけ教えられていない項目や、もらえないプリントが出ることである。しかも、普通級での教科担当教師が、そのことに気づいてもいない ことだ。少なくとも、通級のため出てないときの プリントを渡すことぐらいは して欲しい。
すなわち、普通級では、その子が存在しないかの扱いを受けていることだ。