猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

私の愛すべき子どもたち、個別級・通級・普通級

2019-04-25 21:36:13 | 愛すべき子どもたち
 
NPOで子どもたちを指導していると、なぜ、この子たちが通級に通うのか、個別級に行くのか、わからないことがよくある。そこで、ちゃんとした、この子たちのための教育がなされれば、まだ、納得できるが、実際には、そうではなく、将来の社会参加の在り方をせばめる。だから、心苦しいのだ。
 
これは、わたしだけでなく、同じNPOで働くものの共通の思いである。
先週、面談で、「どうして僕は通級にいくの」と子どもに訴えられた、と親が言った。わたしも、そう思うので、親にたずねたら、「うちは母子家庭だから貧乏なの、ただで心の面倒を見てもらえるから通級を望んだの」ということだった。
 
わたしは、実は、その子と話すのがとても楽しい。好奇心が強く、非常に物事にこだわる。質問が鋭い。独創的である。その子の夢は、工業高校にはいって、エンジニアになり、みんなを助ける機械を発明することだと言う。
 
もともと、学校教育法にもとづき、障害をもった子どもたちのため、盲学校・聾学校・養護学校などの特別支援学校がつくられた。養護学校は、視覚、聴覚以外の障害をもった子どもたちのための学校で、「精神薄弱、肢体不自由、身体虚弱などの児童・生徒の特殊教育」の学校である。
 
わたし自身は、「肢体不自由、身体虚弱」などの子どもたちを他から隔離して、別の学校に入れる理由がわからない。普通の学校は、別に「軍人」を育てるところではないから、肉体的障害を理由に、「健常者」と分け隔てて教育する必要はない。
 
文部科学省用語の「精神薄弱」は、現在では差別用語で、「知的能力障害」に置き換えた方が良い。「知的能力障害」といっても、「特別支援学校高等部」にいく「軽度の知的障害」の子どもたちには、わたしは、隔離が必要なほどの障害を感じない。
 
いっぽうで、文部科学省がインクルーシブ教育を唱えている、ことを最近知った。整合性はどうなっているのだろう。
 
わたしは、公教育では、できる限りインクルーシブであるべきだ、と思う。
必要なのは「隔離」ではなく、「配慮」である。例えば、車椅子で教室に入れるようにすべきである。車いすで校内を移動できるようにすべきである。
 
2004年に発達障害者支援法が成立し、文部科学省は、「自閉症」「情緒障害」「学習障害」「注意欠陥多動性障害」の児童に「特殊教育」を拡大し、各学校に特別支援学級の設置を通達した。
 
横浜市では、これらを「通級」「個別級」と呼んでいる。「普通級」とは「特殊教育」でない授業のことである。
 
「個別級」とは、子どもたちは、同じ学校に通うが、「普通級」の生徒から隔離され、「個別級」の教室で、全授業を受けることをいう。「普通級」とまったく異なった教育が担当教師の責任でなされる。多くの中学校の「個別級」では、義務教育にもかかわらず、教科書の配布すらない。
 
「通級」は、ふだんは「普通級」で授業を受け、週に何回か、特定の曜日の午後、「普通級」の生徒から隔離され、「特殊教育」を受けることをいう。横浜市では、「通級」の設置されている小、中学校は少ないので、離れている学校に通うことになる。
 
「特殊教育」とは、何なのか、さっぱりわからない。わたしが見る限り、法律で「発達障害」とされる子どもたちの多くは、平均的でなく、個性あふれる子どもたちである。すなわち、多様であるから、マニュアル化できるような「特殊教育」なんて、ありえない。
 
平均的な子どもたちの学習を邪魔しないように、手間のかかる子どもたちを隔離しているだけのように思える。
 
具体的に話すと、通級に通う その子は、通級の先生には満足している。話をきいてくれ、信用している。
不満は、通級に通うため、その時間、ほかの子どもたちが受けている授業に参加できず、英数国などの教科に、自分だけ教えられていない項目や、もらえないプリントが出ることである。しかも、普通級での教科担当教師が、そのことに気づいてもいない ことだ。少なくとも、通級のため出てないときの プリントを渡すことぐらいは して欲しい。
すなわち、普通級では、その子が存在しないかの扱いを受けていることだ。

天皇が時を支配する「元号」と、言い訳が必要な「令和」

2019-04-25 20:26:32 | 天皇制を考える


元号法は、1979年に、民族派の運動団体の後押しで成立した。この民族派の運動団体は、現在、日本会議に引き継がれている。民族派が元号にこだわったのは、「天皇が時を支配する」という意味が、元号にあるから らしい。

天皇が時を支配するのは、たんなる象徴ではなく、行政サービスのあらゆるところで、この元号の使用が強制される。

天皇が変わるたびに、年号が変わるのなんて、不便でたまわらないし、日本だけで使用される。
時をはかる基準点は固定すべきである。世界で多くの人が使っている西暦で十分である。

それなのに、行政サービスで、元号の使用を強制するのは、個人崇拝を強要する全体主義国家を思い起こさせる。

皇太子徳仁(なるひと)が5月1日から天皇になるのだが、元号「令和」に合わせて、「令和」天皇と呼ばれる。書類に「令和××年」と書くのは、「令和天皇の即位××年」と書いていることになるのだ。

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元号「令和」の案を提出した識者の一人、中西進が、メディアに出てきて、はしゃいでいる。

九州の太宰府での「宴会」に32人の役人があつまったという、万葉集の32の和歌の漢文の前書きから、離れている2つの漢字を選んだという。

万葉集は、色々な階層のひとの和歌からなる。読み人知らずの相聞歌も少なくない。村の若者が男女に分かれて、伝えられてきた歌を、互いにうたって、きもちをたかめ、愛の行為に至ったのであろう。

万葉集の若者の喜びの歌から選ばず、役人の酒の宴の、しかも、漢文の前書きから、しかも、離れている、2つの漢字を選んだことを、90歳の国文学者の中西進は、自慢しているのだ。

この感覚が理解できない。

中西進は、また、辞書に「令とは善のことだと書いてあります。つまり令の原義は善です」という。どの辞書にそんなことが書いてあるのか。

2000年近く前の『説文解字』は、「令」の字が、人を集めるという上部と、ひざまずくという下部からなる「会意」である、と説明する。ひとを集めて命令するのが原義である。

甲骨文字の研究家、白川静は、下部はひざまずくだが、上部は礼冠で、神官がひざまずいて神意を聞くさま、と別の解釈をする。が、現在の「令」のイメージとは結びつかない。

諸橋轍次の『大漢和辞典』では、「令」の字の意味として、名詞・形容詞で19個の意味、動詞などで6個の意味を列挙しているが、名詞・形容詞の項の6番目に「よい」という意味をかかげている。これは、敬称や君主とふさわしい行い、という意味での「善い」のである。「令息」「令嬢」「令弟」「令妹」「令愛」は、いずれも、「よいしょ」するときの言葉で、中国で支配階級の力が強かったことによる。「不令」は「ふさわしい行いでない」という意味である。

面白いのは、諸橋は、12番目に「小もの」という意味を掲げている。笑ってしまう。

「善」の字は、『大漢和辞典』によれば、日本語の「よい」と同じく、幅広い意味がある。13個の意味が列挙されている。べつに、「道徳的」な意味ではない。

『説文解字』も白川静も、「善」の字が羊を使って争いを裁いたことから来て、神意に従うこと、と説明する。

白川静は『字統』に、羊を使った裁判について、『墨子』にもとづき、詳しく説明している。あらそう原告と被告がそれぞれ羊を差しだし、首の動脈を切り、先に異常を示した羊の持ち主が敗訴となる。このとき、敗訴した者は羊とともに皮袋に包まれ、水に流される。残酷な話である。

中西進は、令は「うるわしいという言葉です」という。これは、ますます不可解だ。「麗」の字は、角の美しい見事な鹿のことをいう。「令」が「麗」だというのは駄洒落なのか。

相聞歌は、民衆によって歌い継がれてきたもので、声にすると美しい響きをもつものが多い。国文学者の中西進は無理な言い訳をせず、読み人知らずの相聞歌から2文字ないし3文字選べばよかった。