猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

「万世一系」は日本人として恥ずべきこと

2019-04-21 19:48:10 | 天皇制を考える


私は、旧約聖書『士師記』のことば「そのころ、イスラエルには王がいなかった」が好きである。『士師記』に4度も出てくる。

「王」とは、「血筋によって支配者になったもの」という意味である。

実は、ヘブライ語にもギリシア語にも「王」ということばがない。動詞「治める」の名詞形「治めるもの」が、「王」のかわりとして使われている。

日本語にも「王」も「天皇」もなかった。「王」は明らかに中国からの輸入だし、宇山卓栄によれば、「天皇」も明治になって使われだした漢語だそうだ。「天皇」は、大胆にも、中国の「皇帝」に対抗して作られた漢語らしい。

旧約聖書『サムエル記上』によれば、民が「他国のように王をもちたい」と望んで、イスラエルに王ができたという。

このとき、祭司サムエルは、神のことばとして、王はろくでもないものだ、後で泣いても遅い、と民に警告した、と『サムエル記上』にある。

そして、祭司サムエルは、ベニヤミン族のサウロの頭に油をそそぎ、初代の王とした。しかし、王サウロが、敵アマレク人の王アガグを殺さず、連れて帰ったため、祭司サムエルは、神の意志に逆らったとし、サウロに王の座を奪われると預言し、みずから、王アガグを切り殺した。

すさまじい話である。

サウロは王の座を奪われ、そして、ユダ族のダビデが、二代目のイスラエル王になる。ダビデは、敵ペリシテ人側に寝返っていた軍人である。

もっとも、長谷川修一は、旧約聖書でてくる、この統一イスラエル王国やダビデ王の話は、歴史の偽造で、存在しなかったのでは、と言っている。

バートランド・ラッセルは、『西洋哲学史』の古代篇で、ギリシアの政治体制は、王制から民主制に、民主制から民主制と僭主制との競合に移った、と言う。その転換点で殺し合いがあったという。これもすさまじい話である。

僭主制とは、強い者が支配者になり、合議制を無視することである。

ローマ帝国の皇帝は血筋ではない。王ではない。アフリカ出身の黒い肌の皇帝もいた。強い者が王になるのだが、強くなるためには、民衆の支持がいる。ローマ帝国の政治体制は、選挙の手続きが不確かな大統領制とも言える。

ヨーロッパの森の奥地では、「王」は、貴い人々からの選挙で選ばれたという。kingの語源は、「血統」らしいが、これは「貴い人々」さす。「王」の子が「王」になるのは、9世紀以降の神聖ローマ帝国に始まる。選挙を無視するのに、キリスト教の教皇が手助けした。

「天皇」が中国の「皇帝」に対抗したように、王制の歴史は、中国が明らかに古い。

しかし、中国でも、ヨーロッパでも、王朝は長く続かない。入れ替わるのだ。これは、すごく健全なことである。

人間の遺伝子は、みんなが引き継いでいる。たまたま、恵まれたひとが、「治めるもの」になるだけである。王の子が王になることに何の意味もない。血筋によらず、「治めるもの」を選び直すのが、健全である。

「万世一系」とは、選び直しが一度もないということだ。これは、日本人として-恥ずべきことである。

日本国憲法の第二条、「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」は、民主制の国にあってはならない条項である。

森本あんり、「反知性主義」は民主主義の原点

2019-04-21 10:15:00 | 思想

3年ぶりに、森本あんりの『反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体』(新潮選書)を読みなおした。

本書は、現在のアメリカ精神を形作る底流、「反知性主義」を、キリスト教の信仰復興運動、リバイバリズムから説明するが、それを超えたもっと根本的なものとして、「反知性主義」がある、と私のこころに訴える。

「アメリカの反知性主義の原点にあるのは、この徹底した平等主義である」

アメリカの独立宣言に「すべての人は平等に創られた」とある、と森本は指摘する。だが、理念であって、「現実からかけ離れている」とも、指摘する。

その理由として、森本はつぎのように言う。

《実のところ、植民地時代のアメリカは、何とかして「神の前での平等」が「社会的な現実においける平等」という現実に直結しないようにと、必死の努力を続けていたのである。もし万人が社会的平等を主張したなら、上に立つ者の権威はどうなってしまうのか。政府や王や教会を敬う人はいなくなり、体制転覆の革命が起き、アナーキー(無政府状態)が生じるのではないか。これが彼らの恐れていたことだった。》

森本はさらに言う。

プロテスタント主流派は、《長い間、人間はみな宗教的にも平等でも、社会的な現実においては不平等でよい、と考えてきたのである。》
《そこで依拠したのは、新約聖書『ローマ人への手紙』13章に書かれたパウロの次のような理解である。「すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。権威に逆らう者は、神の定めに逆らう者であるから、そういう者に対しては剣をもって罰するのが官憲に与えられた役割である。」》

プロテスタントといっても、ルターやカルヴァンの主流派だけでない。『マルコ福音書』『マタイ福音書』『ルカ福音書』では、神やイエスが霊によって、クリスチャン各個人に直接話されるのである。したがって、当然、リバイバリストは、つぎのように、言い返す。

《「神は福音の真理を「知恵ある者や賢い者」でなく「幼さ子」にあらわされる、と聖書に書いてある(『マタイによる福音書』11章25節)。あなたがたには学問はあるかもしれないが、信仰は教育のあるなしに左右されない。まさにあなたがたのような人こそ、イエスが批判した「学者パリサイ人のたぐい」ではないか。」》

そして、森本はつぎのようにいう。

《19世紀に名をなした人の中には、貧しい出自で学校すらろくに通わなかったのに、いつの間にか弁護士になって政界に躍り出る人がいる。ジャクソンもそうだし、丸太小屋に生まれたリンカンも、次に取り上げるフィニーもそうである。》

《ディヴィー・クロケット(1786-1836)は、素手で熊をやっつけ、トレードマークのアライグマ帽を被り、愉快なほら話をして人気を集め、アラモ砦の戦いで勇敢な死を遂げた人物である。しかし彼は同時に、テネシー州の治安判事であり、州選出の連邦議員でもあった。いったい、どこでどうやって法律家になる勉強をしたのだろうか。実は、クロケット自身も「法律の本など生まれてから1頁も読んだことがない」と豪語している。書ける字は自分の名前だけだったという。》

《クロケットにすれば、法律の知識がないことはむしろ誇りである。自分が下した判決は、一度も控訴されることはなかった。なぜなら、自分は法律の知識ではなく、正義と誠実という人間同士の自然な原則にもとづいて判断したからだ、というのが彼の自慢であった。》

アメリカに限らず、民主主義とは、権威を振りかざす学識経験者とかだまされず、自分のおかれた現実のうえに立ち、権力者に逆らうことでなりたつ。
すなわち、「反知性主義」は民主主義のだいじな一要素なのである。

[引用図書]
森本あんり:『反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体』 新潮選書、新潮社、 2015.2.20、ISBN: 978-4106037641