エーリヒ・フロムもトーマス・マンも民主社会主義者であった。ともに、ナチスのドイツから離れた。
フロムは、1941年に出版された『自由からの逃走』(東京創元社)の冒頭で、つぎのように書く。
「近代のヨーロッパおよびアメリカの歴史は、ひとびとをしばりつけていた政治的・経済的・精神的な枷(かせ)から、自由を獲得しようとする努力に集中されている。」
そして、彼は、どうしてドイツ人の多くがその「自由」を捨て、アドルフ・ヒトラーに従ったのかを問う。彼は、「自由」とは、個人の確立(the process of individuation)の戦いのなかで得られたものなのに、ドイツの一般大衆は、「自由」を楽しめず、多くの人が孤立感、無力感にさいなまれ、自由を放棄したのだという。
私は、トーマス・マンの『ヨセフとその兄弟』を読んで、素晴らしいはずの「自由」を人々がなぜ放棄するのか、わかった気がする。
私は「自由」は他人に束縛されないことだ、と思っていたが、それだけでなく、「自由」の名目で、他人を押しつぶす人が出てくる。だから、単に「孤立感」「無力感」にさいなまれるという気持ちの問題ではない。
マンが創作した人物 ヨセフは、人を押しのけて、自分のやりたいことをやろうとする人である。ヨセフを嫉妬する兄弟は、ヨセフを野原の深い穴に閉じ込め、隊商に売ってしまう。このとき、ヨセフは「傲慢だった」と反省する。これは、「自分の力を過信した、これから、もっと注意深くふるまおう」ということにすぎない。ヨセフには、自分の兄弟への「おもいやり」も「共感」もない。
トーマス・マンの『ヨセフとその兄弟』では、第I部から第III部まで、ヨセフがいかに賢いか、狡猾でしゃべりがうまいか、自己肯定と上昇志向が強いか、そういうことばかりが強調されている。ヨセフの心には「共感」や「愛」が欠けている。
社会が「自由」になったとしても、「共感」や「愛」が欠けていれば、社会は個人と個人との争いの場にすぎない。トマス・ホッブスの「万人の万人に対する闘争」の世界である。
勝てなかった人にとって「自由」は何の意味ももたない。そこに、ヒトラーが社会を変えると言えば、「千年王国」をもたらすメシアと期待する人々が出てくるのも やむをえない。特に1931年に世界大不況が起き、ドイツにもそれが訪れたので、3分の1の人がヒトラーを支持したのも不思議でない。
J. D. サリンジャーの娘、マーガレットは、1930年代、「自由」の国、アメリカでも強烈にユダヤ人が差別されていた。社会格差が公然と肯定され、神に愛されものが金持ちになるとみなされた。
「自由」が「社会格差」の肯定を導く問題はドイツだけでなく、アメリカにも、日本にもあった。そして、今もある。
「個人」とは、人間ひとりひとり違うということだ。これは隠しようのない事実である。違うことを肯定しなければ、異質だということで「いじめ」が発生する。他人と違う自分を かけがえのないものと肯定しなければ、「うつ」になる。だから、私は「自己肯定」は必要だと思う。
人に命令されず、自分のやりたいことをやるという積極性、主体性も当然の権利である。やりたいことを諦めてばかりだと、生きる意欲がなくなる。そこに、ひとから、「バカだ、死ね」と言われれば、「うつ」になる。
すると、「共感(empathy)」や「愛(intimacy)」が社会から欠けていることが、本当の問題なのだ。
トーマス・マンの『ヨセフのその兄弟』第IV部まで、読むと、ヨセフと兄弟との涙の和解の物語があるらしい。マンも「共感」や「愛」の重要性を理解しているはずだ。しかし、マンは本書を悪漢の成功物語のように書いているので、私には、第IV部まで、なかなか読み通せそうもない。