小塩節は、『トーマス・マンとドイツの時代』(中公新書)で、マンの『ヨセフとその兄弟』がおもしろいと、25ページも使って紹介している。
『ヨセフとその兄弟』(筑摩書房)は日本では3冊に分かれて出版されたが、原著 “Joseph und seine Brüder” は4部作からなり、第1部『ヨセフの物語』は1933年に、第2部の『若いヨセフ』は1934年に、第3部の『エジプトのヨセフ』は1936年、第4部は1943年に出版された。
第1分冊と第2分冊を同時に図書館に貸し出しを請求したが、第2分冊が先に届き、それから読み出した。第2分冊は原著の第3部で、翻訳で620ページある。
読みだして、あまりにも自己肯定感が強いので、びっくりした。小塩が言うほどは、おもしろくないのである。第3部では、ヨセフ(ドイツ語ではヨーゼフ)が砂漠の民の世界から、農耕の民の世界にはいっていくわけだが、とりまく世界の違いが感じられない。ヨセフがいかに賢いか、すなわち、狡猾でしゃべりがうまいか、すなわち、上昇志向が強いか、そういうことばかりが強調されているのだ。
とにかく読んで おもしろくないのだ。
もちろん、第1部から読みだせば、違った読書感になるかもしれない。
しかし、裕福な商人の出で、ルター派(もしかしたらカルヴァン派)のトーマス・マンは、私と根本的に違うところがあるのかもしれない。彼にとって、狡猾でしゃべりがうまいことは、生きていくための当然の能力で、他人を踏みにじるのは問題がないのかもしれない。
小塩もプロテスタントで、私は教派を知らないが、マックス・ヴェーバーを持ち上げるから、カルヴァン派かもしれない。
エーリッヒ・フロムが『自由からの逃走』(東京創元社)で書くように、カルヴァン派の「予定説」には「人間が不平等に作られている」という考えがある。
《予定説はもっともいきいきとした形で、ナチのイデオロギーのうちに復活したからである。すなわちそれは人間の根本的な不平等という原理である。カルヴァンにとっては二種類の人間が存在する。――すなわち救われる人間と永劫の罰に定められている人間とである。……(人間は神によって不平等に作られているという)この原理はまた、人間の間にどのような連帯性もないことを意味している。》
カール・カウツキーも同様な指摘をしてる。「予定説」は勝ち組と負け組の存在を肯定し、他人を踏みつけ、上昇していって良いとする。
トーマス・マンの強い自己肯定感にも、自分が神に愛されているのだ、愛されていない者のことを無視してもよい、踏みつぶしてもよいというものを感じる。
そのトーマス・マンが政治的立場として民主社会主義者で、1933年ナチスによって国外追放になった。だから、『ヨセフとその兄弟』が不可解である。
私は、フロムやカウツキーと同じく、あまりにも強い自己肯定と上昇志向を好まない。社会的格差が肯定され拡大されるからだ。
適度な自己肯定と上昇志向があってよいが、他者に対する共感性(empathy)と親密さ(intimacy)とつり合いがとれていてのことである。