きょう、津久井やまゆり園大量殺傷事件の初公判があった。きょうの報道は、遺族の復讐感情をあおるか、そうでなければ、被告が小指を噛み切ろうとした行為を奇異なことと書き立てるかである。あすにならないと、まともな報道はでてこないだろう。
被告が小指を噛み切ったとしても、死ぬわけではないから、そのようなことに、審理が影響されてはいけない。
本裁判は、裁判員裁判であるから、数日で審理は終わり、来週には判決が下される。
あるべき報道は、公判の予定ときょうあった審理内容をまず要約し、適切な公判になるための提言をのべることだ。
きょうは、起訴内容の朗読と被告人の罪状認否があった。被告は、起訴内容に間違いがありませんと答えたという。この後、開廷から10分余りで、被告が小指を噛み切る仕草をしたということで、休廷になり、被告不在のまま、午後から審理が再開されたという。
それは、検察側と弁護側の冒頭陳述である。公判において両者が何を争うかを、公に提示するステップである。この冒頭陳述は、被告が聞かねばならない大事なものである。もし、弁護側の冒頭陳述が被告の意志に背くものであれば、被告は弁護団を解雇できる。
したがって、裁判長は、被告の手にグローブをかぶせたとしても、冒頭陳述に被告をたちあわせるべきだった、と思う。
今回の栽培員裁判では、事前の論点整理で、善悪を判断し行動する能力が被告にあったのか、どうかに、しぼることで合意され、その情報が公判の前にメディアに漏れていたと推定する。
いまなお、「重い障害者を殺害することが社会正義である」と被告が主張しているのだから、裁判ではそれが正義かどうかを裁くべきである。被告の同意がなく、弁護側がかってに「善悪を判断し行動する能力はあった」のかを争点にするのは、茶番である。
メディアが被告への復讐の感情をあおっているなかでの、裁判員裁判であるから、裁判員側、検察側、弁護側が「善悪を判断し行動する能力はあった」と合意し、極刑の判決がおりるだろう。弁護士は刑が軽くなるよう努力したから、弁護義務を果たしたとして、弁護料を被告または国からもらうだろう。
私は「善悪を判断し行動する能力はあった」かどうかの議論は意味がないと思う。情緒酌量は、(1)故意の殺傷ではない(過失)か、(2)正当な自己防衛か、に限定すべきである。
「重い障害者を殺害することが社会正義である」を裁くべきだと私が思うのは、日本の社会に被告と同じ考えの人たちがいるからだ。例えば、発達障害者さえ殺害する政府の元事務次官がいるのである。
復讐をすることに裁判の目的があってはならない。今回の裁判を通して、社会正義とは何かを明らかにすべきと考える。
〔追記〕
1月10日に、2回目の公判があった。被告は両手にグローブをつけられて出廷した。
検察の陳述によれば、事件当日、被告は、拘束した職員をつれて、施設利用者(障害者)が話せるか否かを確認し、しゃべれないとわかると殺害したという。
〔追記〕
同じ1月10日に、これと別に、神奈川県の意向を受けて、津久井やまゆり園の利用者の生活実態を調べるための検証委員会の初会合が開かれた。身体拘束が日常化していたのではという疑いがあるためである。検証委員会の次回は1月21日である。