カール・カウツキーは 『キリスト教の起源(Der Ursprung des Christentums)』を1908年に出版した。この書の翻訳は、1975年に法政大出版局から出版されている。
この中で、『ルカ福音書』と『マタイ福音書』との山上の垂訓の記述の違いは、金持ちに対する立場の差を反映しているとカウツキーが指摘している。
『ルカ福音書』では、
「貧しいものは、幸いである、神の国はあなたがたのものである。」
「今飢えているものは、幸いである、あなたがたは満たされる。」
とあるにたいし、
『マタイ福音書』では、
「心の貧しいものは、幸いである、天の国はその人たちのものである。」
「義に飢え渇くものは、幸いである、その人たちは満たされる。」
となっている。
カウツキーは、『ルカ福音書』が原始キリスト教により近いという。
そして、『マタイ福音書』では、マタイ派教会が金持ちを自分の派に引き込み、寄付をもらうために、「貧しい」のまえに「心の」を置き、「飢え」のまえに「義」をおいて本来の意味を変えたのだという。
ギリシア語原文では、日本語と語順が違うので、マタイ派教会が“οἱ πτωχοὶ”の後ろに“τῶ πνεύματι”に置き、“οἱ πεινῶντες”の後ろに“τὴν δικαιοσύνην”を置いたわけである。
さらに、『ルカ福音書』では、「貧しいもの」「飢えているもの」は「あなたがた」と呼ばれ、『マタイ福音書』では「その人たち」(ギリシア語では3人称複数代名詞αὐτοὶ)となっている。
『ルカ福音書』は、貧しいもの、飢えているものに、「幸いあれ」と気勢挙げているのに対し、『マタイ福音書』では「幸いである」と自分たちと異なるものとして、ひとごとのようにお説教しているだけだ。
さらに、『ルカ福音書』では
「あなたがた富んでいる人たちは、わざわいあれ。慰めを受けてしまっているからである。」
「あなたがた今満腹している人たちは、わざわいあれ。飢えるようになるからである。」
とあるが、『マタイ福音書』ではこの部分が削除されている。
「原始キリスト教」(Urchristentums)とは「元祖キリスト教」という意味と解してもよい。福音書は、イエスの死後、40年ほどして書かれたものだから、すでに、原始キリスト教もいろいろな派に分かれていたと思われる。
「元祖キリスト教」は金持ちを激しく憎んでいたが、教会の組織が大きくなるにつれ、教会のメンバーに上下ができ、また、金持ちを信徒にうけいれるようになった、とカウツキーは考える。それに応じて福音書の書き換えがおこったとする。
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カウツキーは、『キリスト教の本質』を書いたアドルフ・ハルナックと同時代の人である。
カウツキーは社会民主主義者であり、キリスト教を共産主義運動との関連からとらえようとした。
彼の別の著作『中世の共産主義』では、変質した教会は、「元祖キリスト教」に帰ろうとする共産主義派を異端として迫害したと書く。
カウツキーは、1858年に、当時オーストリア帝国領のプラハで生まれた。彼の父はチェコ人、母はドイツ人である。ナチスのオーストリア併合でアムステルダムに亡命し、1939年に死んだ。彼の妻はナチスの強制収容所アウシュヴィッツで死んだ。