津久井やまゆり園大量殺傷事件の公判は、1月8日が初公判で、きょう17日で第5回公判になる。予定では、25回の審理が開かれ、第26回公判の3月16日に判決が下される。
今のところ、遺族の処罰感情の報道はあるが、なぜ、人を殺していけないのか、また、被告は何を考えているのかの報道がほとんどないように見える。裁判員裁判というが、傍聴席数が限られていて、関心をもっていても、公判の様子が、見えてこない。民主主義社会では、公判が誰からでも見えるようにしないといけない。
その点で、ジャーナリズムの責任は重い。公判に参加しなくても書けるような記事ではダメだ。努力してほしい。
そのなかで、社会活動家、雨宮処凛の初公判報告は評価できる。
《植松被告の入廷に私は間に合わなかったので、その顔や表情を見ることはできなかった。しかし、見た人は一様に「ものすごく緊張している様子だった」と印象を語った。》
《重度障害者を「心失者」と勝手に名付け、日本の財政を救うために事件を起こしたのだとうそぶいていた植松被告は、法廷で裁判長に「ここまで理解できましたか」「事実と間違いありませんか」などと聞かれるたび、蚊の鳴くような弱々しい声で「はい」と答えた。》
被告は反省しているのだろうか。この態度の変化はどこから来るのだろうか。
雨宮は、被告は弱い者に強気でふるまい、権力など強い者の前ではひれ伏する「権威主義的」人間だろうと推定する。すなわち、反省してはいないと言う。
一方で、雨宮はつぎのようにも言う。
《裁判を傍聴して思ったのは、事件前、想像以上に急激に植松被告の精神状態が悪化していたことだ。》
これは、弁護側の冒頭陳述を聞いて、雨宮が感じたことである。公判で被告自身に語らせ、それを聞いて判断するしかない。最近は、刑を軽くすれば弁護側の任務を果たしたと考え、法廷戦術に走り、被告の意思を無視する弁護士が多い。これは避けてほしい。裁判長の判断で、被告に陳述させることができるはずだ。
第3回目の公判で、同被告の幼なじみで園の同僚の調書が読み上げられたが、これを報道しなかった新聞社があった。この調書は、重要な問題提起をしている。
時事ドットコムニュース《同年4月ごろ(殺傷事件の3ヵ月前)、措置入院から退院した植松被告と再会した際も、被告は共感を求めるように「実際、利用者要らなくね?」「豚とか牛殺して食うでしょ。重度の障害者も会話できなければ動物と一緒じゃん。金かけるの無駄じゃね?」と真顔で話した。危険を感じ、上司ら2人に相談。防犯カメラだけでは効果がないと伝えたが、事件を防げなかったと無念さを明かした。》
毎日新聞《不安を感じた職員が上司らに相談し、鍵を付け替えるなどして侵入を防ぐように求めていた。職員は調書で「防げなかったことが本当に残念でたまりません」と話している。》
上司の対応で事件を防げたのではないか、ということだ。
では、なぜ人を殺してはいけないのか。
モーセの十戒のひとつに、「人を殺してはいけない」(『出エジプト記』20章13節)というのがある。しかし、モーセは自分に背くものを殺す。モーセに従う者どうしでは「殺しあってはいけない」という教えである。
では日本の憲法はどうなっているのか。
憲法13条 「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」
第31条 「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。」
憲法第13条では、「公共福祉に」反すれば、殺してもよいことになる。私は、これを現憲法の欠陥である、と考える。
本件の被告は、障害者は不幸をつくることしかできないとし、犯行予告の手紙を衆院議長に送りつけ、そして本当に事件を起こした。逮捕後も、重度障害者を「心失者」と勝手に名付け、日本の財政を救うために事件を起こしたと言い張っている。
条件なしに、人は人を殺してはいけない、と私は思う。人はたがいに対等なのである。かってに、他人を生きる価値がないとして、その生命を奪ってならない。障害者だけでなく、死刑囚や敵国人も殺してはならないのである。
ぜひ、検察はどういう論理で被告を弾劾するのか、または、被告はそれにどう反論するのか、公判に参加できない者のために、丁寧な報道を望む。