猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

すで死につつある私が死にたい人に死ぬなと言う

2022-02-15 21:43:04 | こころ

私の父は80代前半に死んだ。死ぬ前に認知症になっていた。寝たきりになって死んだ。

私の母は90代半ばに死んだ。老人ホームに入れたら1年ちょっとで死んだ。

私の祖父は70代半ばで死んだ。私が大学で生物学の実験をしているときに、死んだという知らせが入ってきた。祖父の死が私の記憶に残った最初の身近な人の死である。

老いて死ぬのは、多くの場合、すでに体や心が壊れてきているので、やむをえない。私も心臓が衰え、歩けば息切れがする。風呂に入れば、ヒートショックで苦しくなる。それでも、老人に早く死ねというような政府の施策に、私は不愉快になる。

私はNPOで子どもたちの相手をしている。勉強を教えるには、目が悪くなって、苦労している。

そんな老人の私のだいじな仕事は、死にたいと思う若者に「死ぬな」と言うことである。死にたいというのは人生に絶望しているからである。絶望するということは、それだけ人生に期待するものが高いわけだ。絶望している若者にも生きることに未練があるから、死にたいというシグナルを送ってくる。そのシグナルに気づいて「死ぬな」ということが だいじである。

死にたいと言う若者は、周りの人びとがそのシグナルに気づいてくれないのが一番つらいと言う。私が思うに、周りの人びとは、気づいていないのではなく、死にたいと言う人に関わりたくないのであろう。自分だって苦労して生きているのに、なぜ、自分に負担をかけてくるのだと思うのだろう。死にたいと思う人は、それがわかるから、よけい絶望する。人生に絶望するというのは、人間に絶望し、社会に絶望することである。

死にたいというシグナルを送ってくる人がいれば、面倒でも「死ぬな」と言っていただければありがたい。

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